基本が大事? | 馬術稽古研究会

馬術稽古研究会

従来の競技馬術にとらわれない、オルタナティブな乗馬の楽しみ方として、身体の動きそのものに着目した「馬術の稽古法」を研究しています。

ご意見ご要望、御質問など、コメント大歓迎です。

  こちらの写真、見たことがある方も結構いらっしゃるのではないでしょうか。

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  日本人で唯一の、オリンピック馬術競技金メダリスト、西竹一少尉(最終階位は大佐)と、ウラヌス号です。

  西少尉は、華族(男爵)出身であったことから、『バロン西』と呼ばれることが多いようです。


   西少尉とウラヌス号、というとこの写真があまりにも有名なのですが、馬が障害を飛越する様子をよく目にする方の中には、この写真を見てあることに違和感を覚えた方もいるのではないかと思います。


  それは、障害を飛越するウラヌス号の、前肢の形です。

  私たちが普段目にする障害の競技やレッスンなどでは、馬は障害を飛越する際、横木にぶつけないように前肢を折り畳んで飛越することが多いはずです。


  しかし、この写真のウラヌス号の前肢はピンと伸ばされ、まるで空を飛ぶ「ウルトラマン」の腕のような姿勢で飛越しているように見えます。

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  この写真を見た方の中には、

 「ウラヌス号というのは、こんな飛び方をしていたのか。 さすがに金メダルを取るような馬はそこらへんの馬とは違うな。」

  「こういう馬を見い出した相馬眼が素晴らしいな。」

あるいは、

「昔の障害馬は、こういう飛び方をするように調教されていたんだな。」


  「これが、正しいフォームなのか。ウチの馬たちは基礎が出来てないのだな。」

などというように思った方もいるかもしれません。

  
  しかし、それらの解釈は、どれも正しいとは言えなさそうです。



 別の写真があります。

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   馬は同じウラヌス号で、騎乗しているのは、『今村馬術』で有名な今村少佐です。

  こちらの写真では、普段私たちが目にするのと同じように、前肢を折り畳んで飛越しています。

  実は最初の写真は、一般的な、横木を飛び越えるタイプの障害ではなく、
「バンケット」と呼ばれる、段差に飛び乗ったり飛び降りたりして越えるタイプの障害に向かっているところなのだそうです。

  そのような障害に飛び乗ったり飛び降りたりする際には、馬の前肢は上の写真のウラヌス号のように、ピンと伸ばされた形になります。


  ウラヌス号も、「ウルトラマン」のように肢を伸ばして飛越していたのはあの一瞬だけで、普段は現在の馬と同じようなフォームで飛越していたのだろうと考えられます。


  しかし、情報の乏しい時代、ましてマイナー競技の馬術ともなれば、あの一枚の写真だけを見て、馬に「基本のフォーム」を身につけさせるべく、試行錯誤を重ねたような人も結構多かったのかもしれません。



  この事例は、人間の思考の脆弱性とか、限定的な情報を鵜呑みにすることの危険性
、といったことをよく表していると言えるでしょう。
  

  「△△先生は、基本の姿勢はこうだと仰っていたから、これをまず覚えるように」とか、

「〇〇選手の写真をみると、こうなっている」
というような指導を受けることはよくあることではないかと思います。

 「基本の出来ている」はずの上手な人の姿勢を見たらこうなっていたから、それが「正しい基本の姿勢」なのである、ということで、
よくわからなくてもいいからとりあえずやれ、とそういう姿勢を強制することで「正しい乗り方」を身につけさせようとする方法です。

  しかし、そうした「基本姿勢」としてお手本とされているような写真などというのは、
前述のウラヌス号のような特殊なケースとまではいかなくとも、本当に上手な人が、完璧なコンディションの馬に乗っているような場合に結果的に現れる「理想の状態」の中の、それも一瞬だけを切り取ったものであったりすることは、結構多いものです。

  それを、見た目だけ真似て、肘の位置はこう、脚の形はこう、と窮屈な思いをしながら頑張っても、結局それは安易に「結果から結果を求める」ものであり、 

野球をやったことがない人がイチロー選手の写真を見て真似してみても上手に打てないのと同じように、上手な人の精妙な動きとは、例え見た目には似ていたとしても全く異なるものになります。


  選手や指導者の競技成績が素晴らしいからといって、そのフォームや言葉を意味もわからないまま絶対的な基本として扱うのは、特に初心者の方々が上達するためには、あまり効果的ではないことも多いように思います。


   無理矢理作ったような姿勢でたまたま成果が出て「分かった!」と思ったとしても、やっぱりカン違いだった、ということは多いですし、

悪くすると、その方法で間に合ったことでかえって本質から遠ざかってしまい、「小成が大成の妨げになる」ということもあるかもしれません。

 
  昔から、職人仕事や武術などにおいて、いきなり上手な人の技を教えるのではなく、最初のうちは簡単な下働きや、一見役に立たなそうな「型」の稽古をひたすら行わせた、ということの意味は、

基礎的な動きを繰り返す中で徐々に身体操作の感覚が育まれ、単なる筋力や持久力の増強といったことだけではない「動きの質的転換」が自然にできる、ということにあるのだと思います。

 その結果が、「基礎が出来ている」といわれる動きの本質だろうと思うのです。



 乗馬で、「型」に相当するようなものとして、馬場馬術競技の課目などは少し近いようでもありますが、

現代の古武道の演武などと同様に、コンテストスポーツという性格上、規定の課目をミスなくこなすことが優先され、
「審査員へのアピール」といった余計なテクニックが求められたり、結果を出すために安易に間に合わせることを覚えたりするという意味で、

身体感覚の錬成をはかり、動きの質的転換につなげるための「型稽古」としては、ちょっと合わないような気がします。


  フォームの見た目の形や、課目の出来ていないところの指摘ばかりに終始するのではなく、曲がる、止まるといった基礎的な動きを通じて、

馬に乗ることによって端的に感じることができる、現代社会では忘れられがちな「精妙な身体の動きを探求することの面白さ」を味わいつつ、上達にもつながるような「乗馬の稽古法」を考え、取り入れてくれるようなクラブや指導者が、今後多く出てきてくれるといいな、と思います。