~ぶらぶら江戸散歩~vol.98『業平橋』 | 文化家ブログ 「轍(わだち)」

文化家ブログ 「轍(わだち)」

美術や紀行、劇場や音楽などについて、面白そうな色々な情報を発信していくブログです。

江戸開府より約400年。東京下町には、江戸の息吹が今なお息づいております。
身近な江戸をぶらぶら散歩。新富に生まれた私、中西聡。
八丁堀・日本橋を中心に、江戸の町のちょっとした情報をお届けいたします。

今回、お邪魔しましたのは、『業平橋』。
東京の新名所「スカイツリー」が出来た今では、すっかりとその名を聞かなくなってしまった地名かも知れません。
『業平橋』(なりひらばし)。まさにスカイツリーの御ひざ元。
私もスカイツリーに出かけながら、ブラブラ散策いたしました。

 

スカイツリー


散歩中、ちょうど地元のキャラクター「おしなりくん」と遭遇。

握手をしましたら、名刺をもらいました~!! 

 

 

おしなり商店街イメージキャラクター おしなりくん


おしなり君と別れ、少し歩きますと橋が見えて参りました。まさに「業平橋」
かつて流れておりました大横川(今では親水公園)に掛る橋の名として、またこの一帯のエリアの地名として「業平橋」と呼ばれております。

さて、そもそも、業平??と思われる方が多いかと存じます。
地名にもなった、業平、本名「在原業平」(ありわらのなりひら)について、まずはお話しして参りましょう。

時は平安時代前期。業平は、父は平城天皇の第一皇子・阿保親王、母は桓武天皇の皇女・伊都内親王の子として生まれます。
非常に高い身分の出自ながら、宮中で起こりました平城上皇と嵯峨天皇とが対立に巻き込まれ、事件落着後に、臣籍降下(皇室の身分を離れ、家臣の位に降りること)し、姓を「在原」となのるのでした。

業平は、今でいう、超イケメンであったようです!!
ある一人の男の成人になってより死に至るまでの物語、それも恋愛の物語を多くつづった「伊勢物語」。この主人公は、業平に見立てられることが多い事からも、そんな恋愛を繰り広げた業平は美男子であったに違いないとも言われております!!

他にも、業平は歌の名人としても知られております。
醍醐天皇の命で紀貫之などを中心に、古い時代の名歌を選んだ「古今和歌集」。
その序文に6人の代表的な歌人の作風が記されております。
在原業平につきましては、こう記されております。


ありはらのなりひらは、その心あまりて、ことばたらず。

しぼめる花のいろなくて、にほひのこれるがごとし

業平の歌には、花の色彩は少なくとも、におい立つほどの香がある。まさに、それほど、溢れる思いが歌には詰まっている。という意味合いでしょうか。
業平はじめ、このように記された6人の歌人を六歌仙と後世の人は呼ぶようになるのです。

さて、本題の業平橋ですが。
この地名がついた由縁は、業平終焉の場所につくられた塚がこの地にあり、それより転じてこの地名になったと言われております。
今では、業平橋がかかっておりました大横川は親水公園となり、近所の子供たち、家族連れがのんびりと過ごせる憩いの場になっております。

 

親水公園


業平の歌を有名にしました漫画、アニメがございます。タイトルは「ちはやふる」。
最近では映画化もされ、業平の名を知らなくとも、その歌は耳にされた方も多いのではないでしょうか。

「ちはやぶる神代も聞かず竜田川 からくれなゐに水くくるとは」

神々が活躍した神代でもこんな事はなかったでしょう。 竜田川を流れる水が、これほどまでに、真っ赤に染まることは・・・

竜田川に浮かぶ紅葉に埋め尽くされた川が、さも水が赤々と燃える様を読んだ歌と言われますが、その裏には隠されたメッセージが。
「ちはやふる」にても謎解きはされておりますが、業平には熱烈な恋をした人がおりました。それは、藤原高子。しかし二人の思いは権力によって引き裂かれます。高子は治天の君、清和天皇の后として入内してしまいます・・・。

時は流れ、二条后と呼ばれるようになった高子。殿上人として内裏に出仕した業平。
再びであった二人。この際に、業平が忘れられぬ二条后への思いを込めた歌とも言われております。

平安の時代も、現代も、人の感情にはさほど変わりはないものだな~と思います。
そんな業平の名が残るこの場所。
それでは、ぜひ皆様も、機会ありましたら、「業平橋」をブラブラしてみてください!!


この記事について