~ぶらぶら江戸散歩~vol.95『唐人町~肥前(佐賀)』番外編 | 文化家ブログ 「轍(わだち)」

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江戸開府より約400年。東京下町には、江戸の息吹が今なお息づいております。
身近な江戸をぶらぶら散歩。新富に生まれた私、中西聡。
八丁堀・日本橋を中心に、江戸の町のちょっとした情報をお届けいたします。

皆さま、またもや番外編をお届けいたします!!
と申しますのも、まさに日本全国、宇津浦々、今月(平成28年6月)に刊行しました『週刊ビジュアル戦国王』の宣伝行脚に出かけておりますので、江戸の地でお尻を落ち着かせている時間よりも、旅する時間が多くなり、必然と番外編が増えるわけでございます~!!

と言い訳はさておきまして、今回ご紹介いたしますのは、肥後の国(佐賀県佐賀市)にございます町『唐人町』にお邪魔して参りました!!

佐賀駅の駅前ロータリーから延びる大通り。ここが佐賀市のメインストリートであります事は一目瞭然です。
足の向くままに、ブラブラと大通りを歩きます。佐賀県は戦国から江戸時代にかけましては、「肥前の国」として龍造寺家から鍋島家が治める領地でした。
九州においても、大きな勢力として栄え、そのため、現在においても、鍋島藩に御用釜でした「伊万里焼」に代表される「磁器」や、「一楽、二萩、三唐津」に代表される茶碗の産地としての「唐津焼」など、工芸品が脈々と伝わっております。

そんな事に想いを馳せながら、街を歩いておりましたら、通り沿いに、恵比寿様の像があることに気が付きました。近づいて、お参りをしながら拝見いたしました。
すると、『唐人恵比寿』と書かれております。鍋島家の石仏彫刻師をご先祖に持つ平川清氏がつくった数少ない恵比寿像の一つとの事。1939年12月にこの地に置かれたそうです。
この像の紹介文にも書かれておりましたが、堀の深い日本人離れしたお顔立ちは、昔、唐人(異国人)が集まって住んでいたこの唐人町にぴったりとの事。

え!ここは唐人町??!!という地名なのかしら?と思い、回りを見渡してみました。
そうしますと、確かに、交差点上の信号機の表示が『唐人町』!!と。

その土地土地には、どう読んだら良いのかわからない地名などがついておりますので、
なぜ、肥前の国の、この地に「唐人町」と名付けられた町が存在するのか?!と興味が湧きました!
直観的には、横浜や神戸など、歴史上、海外との窓口になった地名、特に港が近い土地には、その名前が有りそうな!気がしまして。

じっくりと謎解きをしようと歩きだしたのですが、すぐに答えが見つかってしまいました。交差点近くに由緒を記す看板が!!

それによりますと、『天正19年(1591年)佐賀藩に召し抱えられた高麗人 李宗歓(り そうかん)は、秀吉の朝鮮出兵の際、通訳として、また陶工たちの招聘にも重要な役割を果たした。宗歓は利敵行為をしたため故国に帰ることができず、佐賀に留まることになった。佐賀藩主 鍋島直茂はこのことを不憫におもい、佐賀城下の十間堀川以北の愛敬島村(あいけじまむら)に、慶長4年(1599年)宗歓が連れ帰ったきた高麗人の一団を住まわせた。~中略~唐人(異国人)の住む町として、唐人町と名付けた。~後略~』と記されておりました。

そうか、それによって、磁器や茶器といった中国、朝鮮の文化が、この佐賀藩で花開いたのか~と、たいへん合点が参りました。

のんびりとした良い風情に、流れる川の水がたいへん美しいこの「唐人町」
平成7年3月22日には、国より「水の郷」にも認定されているそうです。

清流が流れる場所は、「醤油」などの製造にはもってこいの場所と言われます。
やはり、ここ唐人町でも、昔ながらの佇まいを残すお醤油屋さんを発見いたしました!!
佐星醤油と読ませるのでしょうか。蔵をそのまま店舗にしたような、そんなお店でした。
実際にこちらの店舗でも、醤油が販売されているそうですが、荷物になるので今回はお土産にするのは諦めました~。
 
それでは、ぜひ皆様も、機会ありましたら、「唐人町」をブラブラしてみてください!!


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