ぶらぶら江戸散歩&戦国サンポ 合同記事『佐賀~松原神社~』 | 文化家ブログ 「轍(わだち)」

文化家ブログ 「轍(わだち)」

美術や紀行、劇場や音楽などについて、面白そうな色々な情報を発信していくブログです。

 

江戸開府より400年。関ヶ原の合戦以来、416年。
東京下町には、江戸の息吹が今なお息づいております。
そして日の本にも、つわもの達の夢のあとが、しっかりと刻まれております。
江戸は新富に生まれた、私、中西聡。
江戸の町&日の本諸州のちょっとした情報をお届けいたします。

かれこれ2年以上の回を重ねて、江戸散歩をお届けして参りました。幸いにも江戸の町を抜け出す事も多くなり、全国の北から南、そして東から西へと旅する機会に恵まれましたので、せっかくなら!とこれからは、日の本諸州を訪れた旅の徒然をもご紹介して参りたいと思います。

今回、お邪魔しましたのは、佐賀県佐賀市。
地名の佐賀。実は、この地名は古く『風土記』の中にも「佐嘉」の漢字で記載されている地名なのです。
由来は諸説あるようですが、日本武尊(ヤマトタケル)がこの地に茂る大きなクスノキを見て、「この国は栄の国(さかのくに)である」と言ったため、栄(さか)が転じて「さが」になったという説が有力なようです。
ロマンがあって、佐賀という地に俄然、興味が湧いてきませんか?!

さて、この佐賀県。戦国時代、江戸時代には肥前の国と呼ばれておりました。
そしてこの地の領主は、龍造寺家(りゅうぞうじけ)。もともとは国人でありましたが、勢力を拡大し、戦国大名となり、この地を統治するのです。
その後、龍造寺の家臣でありました鍋島家の鍋島清房が、主家より嫁をめとり、龍造寺氏と姻戚関係を結びます。鍋島家は大いに主家の龍造寺氏を助け、その支配拡大に尽力したと言います。
戦国時代は、政略結婚、家と家との結びつきで大いにその家の運命が左右されました。
生き抜くことに必死。どんな手段も、乱世では厭(いと)わずに使ったことが想像できます。

龍造寺隆信の死後、豊臣秀吉より肥前の国の実質支配を鍋島家は仰せつかり、やがて、徳川家康より正式に佐賀藩主に任命されるのです。こうして、鍋島家は、主家、龍造寺家の肥前の支配を簒奪する形となりました。

さて、お話を散歩に戻しましょう。佐賀駅から徒歩で20分ほど。バスなどの公共機関が近くを走っていたのですが、江戸の町で日々歩くことに慣れております私は、見知らぬ町を知るには、歩くことが一番と常々思っております。それに初めての土地なぞは、回りをキョロキョロするのも楽しいもの。そこで、佐賀駅を起点に、あてどなく歩いておりましたら、突然、大きく立派な鳥居に遭遇しました。


 


夕暮れ迫る時間帯。人気のない神社の境内に、荷物を抱え、社務所に向う巫女さんを見つけました。まるで追いかけるかのように、その後を追ってみますと、こちらの気配に気づいたのでしょう。さっと振り返り、でも笑顔で「ようこそお参りを」と言葉を残して去る巫女さん。

その後ろ姿をしばし眺めておりました。
巫女さんの姿が見えなくなってから、改めて境内を見渡してみますと、そこには、大きく茂った樹木が。おそらくご神木(しんぼく)ではないかと思います。
さらに、奥へ奥へと、石畳が続き、神社の敷地がいかに広いかを実感いたしました。


 


歩みを進めて参りますと、神社の一番奥に、それは、それは、立派な社殿が見えて参りました。
社殿の入り口近くには、ご由緒を記した碑が。主祭神は、日峯(にっぽう)大明神とあります。

 

 


日峯(にっぽう)大明神は、鍋島家の始祖、鍋島直茂の法号。そう!ここは、鍋島家を神と祀る神社「松原神社」だったのです。

鍋島家は、江戸時代には肥前藩の藩主として知行36万石の大大名となり、歴代11人の藩主によって継承されて明治維新を迎えました。

佐賀に初めて降り立ち、足の向くままに歩いて、戦国大名そして江戸時代の肥前藩主、鍋島家を祀る神社にたどり着いたのは、何かのご縁、導きを感じずにはおりませんでした。

そうして、改めまして、境内の大きなご神木を見つめなおしますと、まさに、日本武尊が、栄の国と呼んだ、クスノキにその姿が重なって見えるのでありました。

佐賀には、まだまだお伝えしたい情報がたくさん。
これからも、足で歩き、感じた事をご紹介して参ります。それでは皆さまも、機会がありましたら、ぶらぶら出かけてみてください。

 


この記事について