江戸開府より約400年。東京下町には、江戸の息吹が今なお息づいております。
身近な江戸をぶらぶら散歩。新富に生まれた私、中西聡。
八丁堀・日本橋を中心に、江戸の町のちょっとした情報をお届けいたします。
今回お邪魔しましたのは、『虎ノ門』。東京メトロ銀座線が最寄駅となります。
以前ご紹介しました『霞が関』からも近く、桜田通りに面する駅改札を上がりますと、すぐ正面には「文化庁=旧文部科学省」の風情ある庁舎が目に入ります。
その様子からも、この一帯も町の雰囲気は「霞が関」同様に官庁街!!であることを感じます。
少しだけ、雑多な感じがしますのは、外堀通りの先に、サラリーマンのオアシス。「新橋」の喧騒が見えているからかも知れません。
さてさて、まずはこの「虎ノ門」の地名とその由来をご紹介いたします。
まあ、皆さまご想像の範囲と思いますが、「虎ノ門」、その名前の通り、江戸時代に、この地には「虎之御門」と呼ばれる「門」がありました。
しかし1873年(明治6年)にこの門は撤去されてしまいます。
その後、1949年(昭和24年)に町名として「虎ノ門」と復活するまで70年以上の時を必要としてしまいました。
おそらく、江戸城の内堀にかかっておりました大きな門。『半蔵御門』や『桜田御門』これらは、江戸城に直結する大切な門でした。それに対し「虎ノ御門」がかかっておりましたのが、外堀。
この周囲は、前述の「文化庁」庁舎は、江戸時代には「内藤右近将監」の屋敷。
御門の外には、「京極佐渡守」や「本多肥後守」の屋敷ではありましたが、江戸城につながる直接の門ではありませんでした。
そのために、この名前が地名になるには時間がかかったのかな~!と想像をいたします。
さてさて、虎ノ門の交差点の北東の角に、「虎」が座っている史跡を見つけました。
『虎ノ門遺趾碑』と書かれております。そしてこの碑が建立されたのが、昭和二十七年九月建之との事。
虎ノ門 石碑
虎ノ門 石碑
現代のわかりやすい文字ではありません。
内容は定かには判別できませんでしたが、江戸時代 慶長年間において江戸城の増築が行われた際に、内堀・外堀にかかる36門のひとつとして、ここに『虎ノ御門』が出来た事が記されているようでした。
そして、町名として「虎ノ門」が昭和24年に復活した3周年を祝い、ここに石碑が出来たそうです。
それでは、ぜひ皆様も、機会ありましたら、「虎ノ門」をブラウラしてみてください!!
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