~ぶらぶら江戸散歩~vol.91『東をどり』 | 文化家ブログ 「轍(わだち)」

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江戸開府より約400年。東京下町には、江戸の息吹が今なお息づいております。
身近な江戸をぶらぶら散歩。新富に生まれた私、中西聡。
八丁堀・日本橋を中心に、江戸の町のちょっとした情報をお届けいたします。

今回お邪魔しましたのは、今年92回目を迎えました『東をどり』。4日間に渡り10回の公演が行われます。
1925年(大正14)に京都の祇園甲部の舞妓、芸子が開催する「都をどり」を模してスタートしたのが始めと言われます。
『都をどり』につきましては87回88回のぶらぶら散歩でご紹介いたしましたので、ぜひ詳しくは、そちらをご参照ください。

さて、話を「東をどり」に戻しましょう!!
「東をどり」が開催されます劇場。それは、「新橋演舞場」です。
まずはこの新橋演舞場のご紹介からいたしましょう。
 
2010年5月から2013年3月まで、歌舞伎座が改装している際の歌舞伎公演の常設劇場になっていた事もありまして、そもそも松竹の専用劇場として建てられたイメージが強いのではないでしょうか。

私自身も、東宝グループに在籍し、帝劇で舞台製作のスタッフとしては働いておりましたのに、「新橋演舞場」の成り立ちを今回、きちんと勉強いたしましたのでご披露いたします!!

そもそも、花柳界華やかなりし頃、日頃の芸の稽古の発表の場を求め、新橋の芸妓の方々が大正11年に会社を作ります。それが、まさに「新橋演舞場株式会社」。そして前述のとおりに、芸妓の方々の研鑚の発表の場として大正14年に完成した劇場が「新橋演舞場」。そのこけら落とし公演こそが、第1回目の「東をどり」だったのです!!

松竹が興行を受け持つようになったのが、昭和15年からとの事。やはりそう考えますと、「新橋演舞場」は新橋の花柳界のためにあった劇場であったことが良く、良くわかります!!
昭和20年の東京大空襲で劇場は消失。再建されましたのは、昭和23年(1948年)のことでした。歴史をご紹介しますのは、ここまでといたしましょう。せっかくですので、「東をどり」の様子をお伝えしたいと思います。
まずは、正面入り口を入りますと、真っ赤な「東をどり」の提灯。会場の雰囲気が一気に変わります。
正面右手には、売店コーナー。さらに2階に上がるエレベーターを昇りますと、いつもは食事処となっておりますスペースが茶室に変身しておりました。
芸子さんがお茶を点て、虎屋のお菓子と伊藤園の抹茶をいただくことができます。お茶の流派が「江戸千家」であるところに、まさに江戸を感じました。
 
今年の「東をどり」のテーマは『傘』とのこと。
その傘をモチーフにした、さまざまなオリジナルグッズも売られており、開演前や休憩時間も茶室に行ってみたり、売店をうろうろしてみたりと飽きさせません。
 
新橋演舞場の最大の魅力は、演目もさることながら、『食』にもあるのです!!
地下に大きな厨房があり、観劇のお客様に対応するお弁当を、その場で作っております。
さらに、この「東をどり」は新橋の料亭、芸妓からなる組織 東京新橋組合が運営をしております。そのため、通常の新橋演舞場のお料理に加え、『金田中』や『新喜楽』といった名だたる料亭が手を組んだ特別なお弁当が「東をどり」の際に食べることが出来るのです。

まさに、演舞場を一大料亭に見立て、そこで、観劇ができ、食を楽しめるという趣向となっておりました。

公演の内容もご紹介をいたしましょう。
「東をどり」の特色は、3つの踊りの流派の競演でもあります。「花柳流」「西川流」「尾上流」この3つの家元が各演目ごとの踊りを振り付けいたします。
総合監修は、花柳流。豪華なセットが舞台でせり上がり、スペクタクルも売りのひとつです。
フィナーレでは、黒紋付きの芸妓が口上を述べ、間髪おかずに総踊りになる。亰の雅に江戸の粋とよく言われますが、まさにそれを実感いたしました。


花道まで使ってのフィナーレでは、最後に、芸妓のみなさんが自分の名前やサインが入った「てぬぐい」を客席に投げてくれます。
花道近くにおりました私は、運よくいただくことができました。
終演後は、また来年も観に来たいな!と率直に感じました。

それでは、ぜひ皆様も、機会ありましたら、「東をどり」をご覧になってください!!

 

 


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