~ぶらぶら江戸散歩~vol.74『東陽(洲崎)』 | 文化家ブログ 「轍(わだち)」

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江戸開府より約400年。東京下町には、江戸の息吹が今なお息づいております。
身近な江戸をぶらぶら散歩。新富に生まれた私、中西聡。
八丁堀・日本橋を中心に、江戸の町のちょっとした情報をお届けいたします。

今回お邪魔しましたのは、洲崎。
東京メトロ東西線の木場駅、東陽町駅が最寄駅となります。
ちょうど、両駅の中間に位置するこの場所。
この地名を聞いて、ピン!とくる方はなかなかの江戸ツウというか、遊び心がある!というか(笑)。

「洲崎」の名が広く知れ渡りましたのは、大正時代。
吉原』と双璧をなす、大遊郭街がこの地にあったのです。

木場駅と東陽町駅を結びます永代通りを歩いておりますと、「志の田そば」というお蕎麦屋さんが交差点に出て来ます。
交差点からは、洲崎橋と呼ばれる橋が当時かかっておりました。さらに、この洲崎の一帯は3方を川で囲まれた陸の孤島。

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この洲崎橋から南に延びる通り、これが「大門通り」と呼ばれております。
もう、勘の良い方はお解りのはず!! 吉原と同じように、洲崎遊郭を外界から仕切る入り口が当時ここにあったのです。
前述の通り、3方は川で囲まれた地帯。この洲崎橋が、遊郭に入る唯一の入り口でした。

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今は、その橋も無く、跡地の公園には応時、架かっていた橋の名残が碑として置かれておりました。

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さて、大門通りをさらに奥に進んで参りましょう。とってもレトロな風情を残す商店街がございます。「東陽弁天商店会」アーケード通りと書かれた看板がかかっておりますが、その長さは50メートルほど。
昔ながらの洋品店や喫茶店が並びます。
弁天通りという名前。近くに「洲崎神社」が有りまして、通称「洲崎弁天」と呼ばれておりました。
洲崎神社は、桂昌院(徳川五大将軍綱吉の生母)が崇敬した江戸城中紅葉山の弁財天を、元禄13年(1700年)この地に遷座して創建と言われております。当時の様子が歌川広重の浮世絵で『洲崎弁天境内』として残っております。

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では少し、洲崎遊郭の成り立ちを振り返ってみましょう。
そもそもは、根津に広がっていた遊郭街がありました。その地に帝国大学の新たな校舎を建てるという事から、風紀上よろしく無い!という理由から、根津遊郭をまるごと移転することとなったのです。
そこで東京湾を埋め立てた新しい街、洲崎。明治21年(1888年)9月に根津遊郭から移転したのがその始まりです。

そして大正時代に最盛期を迎えます。記録によりますと、洲崎は業者数268軒、娼妓数約2500人。対する吉原は295軒、3500人。その盛況ぶりがお分かり頂けることと思います。

昭和に入り、戦後を迎え、時代の流れとともに、その隆盛はだんだんと衰退していきました。そしてついに、1958年に色町を廃止する、いわゆる赤線禁止令によって、洲崎も消滅してしまいました。

今でも、その名残を感じる場所。それほど多くはありませんが、根津遊郭から移転し、洲崎遊郭でも大いににぎわいました妓楼がございます。それは「本金楼」。その跡地は、ホテル東陽となり、さらに今ではアパホテル東京木場となっております。

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地名も1967年にそれまでの深川洲崎弁天町から、東陽町に統合され、残念ながら洲崎の名前も消滅いたしました。

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唯一、交差点にかかる「洲崎橋南」の看板が寂しく思えました。
しんみりしたお話はここぐらいで。最後に、私が立寄りましたお店でおススメをご紹介いたします。
まさにアパホテル東京木場の並びにありますお蕎麦屋さん。「長寿庵」。ランチに伺いましたがボリュームと色々な定食屋や丼ぶりと御蕎麦のセット価格の豊富さ、美味しさに加え、割りばしの袋に「洲崎 長寿庵」と書かれておりました。洲崎の名前を今に残すお店としまして、ぜひお立ち寄りください!!


それでは、皆さま、機会がありましたら「洲崎」をブラブラしてみてください。

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