日本が韓国の宗教の金づるにされている事実は、問題ないとでも言うのか!

   日本の信者を利用して韓国のために金集めをすることは、元統一教会宗教が差別を行っているということではないのでしょうか。

 

 日本にとっては百害あって一利なしの宗教を排除することは合法であり、カルト認定しても問題ないのではないでしょうか。

 

 早い話が、韓国の宗教団体というのはすべて金集めの手段に宗教を利用しているだけです。

 

 〇国人が教祖の宗教は邪教以外の何物でもありません。

 

 世界基督教統一教会から派生したといわれているオウム真理教は統一教会を過激にしたカルト教団です。同様に教祖は麻原彰という〇国人でした

 

 ちなみに、日本の怖い宗教【5つのカルト宗教団体】という記事がありました。

 

  危ない宗教団体ランキング | 宗教.jp (religio.jp) より一部抜粋させていただきます。

 

危ない団体には基準があります。

1995年にフランスの国民議会で採択された「アラン・ジュスト報告書」から抜粋した危ない宗教団体の構成要件を示した項目です。今では、危ない団体かを判断する尺度として10つの項目を基準としています。これは国際的に危ない指針の1つでフランス以外の世界中で使われています。

  1. 精神の不安定
  2. 法外の金銭的要求
  3. 生まれ育った環境との断絶の教唆
  4. 健全な身体の損傷
  5. 子供の囲い込み
  6. 多少を問わず反社会的な教説
  7. 秩序の撹乱
  8. 裁判沙汰の多さ
  9. 従来の経済回路からの逸脱
  10. 公権力への浸透の試み

 

他には、監獄実験で知られるスタンフォード大学の名誉教授であり心理学者であるフィリップ・ジンバルドー(Philip Zimbardo)による危ない団体に共通する8つの特徴を紹介しておきます。

  1. 宗教団体の中で指導者は自分自身を崇拝させ、特別な使命をもっていると教える。
  2. 指導者は自分と教義に対して絶対的な服従を求める。
  3. 指導者は大きな権力をもち、しばしばカリスマ的である。
  4. 危ない宗教団体は、指導者をひたすら信じる人々によって成り立っている。そして信者を経済的、政治的な分野にも進出させる。
  5. 宗教団体の本当の目的を隠している。
  6. 人の善意を利用する。
  7. 信者たちに自分は特別なのだと感じさせるように仕向ける。
  8. 危ない宗教団体は人間の五つの基本的欲求(生理・安全・社会・尊厳・自己実現)を満たしているように感じさせる

 

今までに上記の10つの基準を1つでも満たし、危ない宗教団体に指定されたのは下記です。

現時点で1995年と1999年の2回に渡って危ないと発表された報告書の中から、有名な宗教団体のみを厳選、注意すべき危ない宗教団体としてリストより5団体だけ抜粋しました。(実は他にも危ない団体はあります)

  • 創〇学会
  • 幸〇の科学
  • 崇〇真光
  • 統〇教会
  • エ〇バの証人

 

 〇価学会もフランスでカルト教団に指定されていた記憶があります。

 

 結局、危ないのは統一教会だけではないということです。どの宗教も金集め目的の宗教が日本国内でも多数あります。

 

 信仰するのは勝手ですが、そのことで家族や友人などが被害を受けるような宗教は邪教としか言えません。オウム真理教も、アレフなどと名前を変えいまだに生き残っています。

 

 こういうところは宗教法人の登録を取り消すべきです。

 

 宗教の名をかたり日本の金を吸い上げ韓国に持って帰るというのは、慰安婦問題や徴用工問題と全く同じ構図なのです。

 

 いまだにそういう邪教を信仰している人たちが一日も早く目を覚ましてくれるのを願ってやみません。

 

 ただ宗教が一律に悪いと言っているわけではなく、教祖が真の宗教活動を行っている分には問題はないとおもいますが、その活動資金を得るために問題のある集金組織に成り下がることに問題があるのです。

 

 特に韓国人の教祖は、反日韓国人が平気で言うように日本人になら何をしても許されるということを実践していることに問題があるのです。

 

【世界日報】「自民党、家庭連合と“絶縁”宣言 宗教差別・弾圧に繋がる、信教の自由を軽んじる愚行だ」

 

【世界日報】「自民党、家庭連合と“絶縁”宣言 宗教差別・弾圧に繋がる、信教の自由を軽んじる愚行だ」 | 保守速報 (hosyusokuhou.jp)

 

2022年09月05日18:30 | カテゴリ:韓国 北朝鮮

 

 

1: Stargazer ★ 2022/09/05(月) 15:12:49.41 ID:RcZghJ9D9.net

信教の自由、思想・信条の自由は、人類が歴史の中で学び取った重要原則である。憲法19条、20条にも保証され、戦後の日本が自由世界の一員として守り続けてきた中心的な価値である。それを軽んじ、危うくさせることがあってはならない。

家庭連合の問題で謝罪
岸田文雄首相は、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)と自民党議員の関係がメディアなどで批判されていることから「率直におわび申し上げる」とし、茂木敏充幹事長に関係断絶の徹底やチェック体制の強化などを指示した。これを受け、自民党は家庭連合や関連団体と今後関係を持たないことなどを基本方針とすることを確認。茂木幹事長は「仮に守ることができない議員がいた場合には、同じ党では活動できない」とまで述べた。

政権政党の自民党のトップが、特定の宗教団体を名指しして関係を絶つと宣言することは、当該団体への宗教差別、弾圧に繋(つな)がる。信教の自由を軽んじる愚行である。

かつて共産党が国会で中曽根康弘首相(当時)に家庭連合の関連団体である国際勝共連合と「自民党総裁として、きっぱり手を切るか」と迫ったのに対し、中曽根氏は「一部団体と、自民党は縁を切れとか言っておられますが、これは思想と行動の自由に対する重大な侵犯発言」と一蹴した。

もともと自民党はさまざまな信仰や思想・信条を持つ人々が、自由と民主主義の価値を中心に結集した政党である。その多様性と懐の深さが国民から支持される所以(ゆえん)であった。その自民党が、国会議員に「踏み絵」を踏ませる江戸時代の宗門改めのようなことを行い、思想や行動の自由を抑圧・制限することは自殺行為と言わざるを得ない。

今回の“絶縁”宣言は、安倍晋三元首相の暗殺事件で、家庭連合が「社会的に問題がある」団体としてメディアの批判の的となり、その関連団体も含め自民党をはじめとした政治家との結び付きをメディアが誇大に報じたことを受けてのものだ。

ただ、家庭連合は今回の事件で違法行為が摘発されたわけではない。献金をめぐるトラブルなど弁護士会への相談が最近も寄せられてはいるが、件数は激減している。関連団体においては、さまざまな形で社会貢献を行っていることも事実である。

これら客観的な立場での実態調査を行った上で、自民党は信教や思想・信条の自由に関わる重大決定を行うべきである。あまりに拙速な決定はメディアや世論への迎合であり、政権政党としての主体性を欠くものだ。

このような前例を認めれば、一部メディアが「反社会的」あるいは「社会的に問題がある」とのレッテルを貼ることで、さまざまな団体が弾圧の対象となる。こうしたメディア・ファシズムを横行させてはならない。

本紙への対応に問題なし

また、関連団体の定義が極めて曖昧だ。メディアは「世界日報」もその中に含めているが、政治家が独立した報道機関である世界日報の取材に応じるのは、ごく当たり前のことである。それを問題視すること自体、言論・報道の自由を脅かす暴挙であることを強調しておきたい。

https://www.worldtimes.co.jp/opinipn/editorial/20220902-164654/

世界日報は、日本の世界日報社により発行される1975年創刊の新聞。日刊紙は関東地方の一部、及び沖縄県の一部を配布地域としており、他に日本全国向けの週刊紙、Sunday世界日報がある。韓国発祥の新興宗教団体世界平和統一家庭連合及び政治団体国際勝共連合の創設者である文鮮明が創刊に関わっている。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E6%97%A5%E5%A0%B1_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
 
 

オウム教祖の死刑から考える「カルト問題」 統一協会元信者の手記で気付かされた「私の間違い」

 執筆者 : 溝田悟士

 

オウム教祖の死刑から考える「カルト問題」 統一協会元信者の手記で気付かされた「私の間違い」

1990年に行われた衆院選に真理党代表として立候補した当時の麻原彰晃(本名・松本智津夫)死刑囚

 

 オウム真理教の教祖・麻原彰晃(本名:松本智津夫)死刑囚ほか、教団元幹部6人の死刑が執行されました。私が、オウム真理教、そして「破壊的カルト」の問題を考える上で、とても重要だと考えていることを、ここで書いておこうと思います。

ちょうど地下鉄サリン事件が起こった1995年春、私は、オウム真理教の本拠地であった山梨県上九一色(かみくいしき)村にほど近い、ある大学に入学しました。その大学があったのは、人口わずか3万人の小さな山間の町です。教会はプロテスタントの教会が一軒しかありませんでした。仕方なく、遠い所属教会に毎週行くことは諦め、そのプロテスタントの教会に通うことにしました。

その教会は、脱カルト・脱統一原理闘争の最前線にいた日本基督教団の教会で、統一協会からの脱会者が脱会後のケアのためにしばらく寝泊まりしているような所でした。通ううちに、元信者の方ともとても仲良くなり、カルトからの脱会者と共に食事をし、そこにいた教団の牧師先生や、脱会者の一部の方とはとことん話し合い、時に対立し合いながらも、深い薫陶を受けることができました。このような経験を持った時期が、自分の人生の一部にあったということは、それこそ言い尽くせぬ神様からの恵みであったと思います。

 

さて、そんな生活を送る中で、私自身が深く反省せざるを得なくなった出来事がありました。

統一協会の元信者の方たちは、いよいよ里帰りするという時に、統一協会で使っていた書籍など必要ないものは置いていきなさい、と牧師先生に勧められます。それらの中から、資料的な価値のあるもの、役立ちそうなものをより分け、あとの不要なものは捨てられるのです。私は統一協会の資料が手元に欲しかったので、牧師先生に許可をもらって、元信者の方が置いていった荷物の中に何か資料となるものはないかと探しました。

 

すると箱の中にあった小さな厚紙が私の目に留まりました。何だろうと裏返してみて驚きました。私が記憶する限りでは、おおよそ次のようなことが書かれてあったのです。

私は自分自身を捨てて生きてきた。やけっぱちだった。
その結果どうにもならず自ら死を求めるくらいにまで堕(お)ちてしまっていた。
私は死のうとしてさまよっていた。
誰も来るはずのない所にUC(統一協会の略)のAさんがいた。
Aさんは私の話をすべて聞いてくれ、Aさんは自分自身を捨てないでほしい、と言ってくれた。
こんなに温かい言葉をもらったのは生まれて初めてだった。
私は自分を捨てて生きてきた。でも神は私を捨ててはおられなかったのだ。
私はAさんとそれを遣わしてくださった神の愛に触れて、ただ泣くほかなかった。
私は死のうとしていたところを生かされたことを神に感謝する。

私はこれを読んでから、「私が間違っているのかもしれない」と思うようになりました。事実「私は間違っていた」わけです。

私は「相手が統一協会の信者であるから脱会すべき」という考えを持っていました。私はそれを読んで、そのような考えを一切捨てました。

「統一協会においても正当かつ宗教的な<救い>は厳然として行われている」

これが私が得た「結論」です。

 

この点に気が付いたとき、その教団の牧師先生が「何のために脱会活動を続けているのか」ということも、「どんな立ち位置で活動を続けているのか」ということも「すべて」が分かった瞬間でした。

ちょうどオウム真理教の事件が起きた年でしたので、その教会にもオウム真理教についての相談が寄せられ、元信者の人が滞在していました。

 

私は、その牧師先生に「オウム真理教は<つぶしてもいい>のだ」と言い、きわめて強くたしなめられた経験があります。その時、その牧師先生は「カルトの信者であるからと言って、その信仰を否定してはならない」ことを、懇切丁寧に私に説いてくださいました。

「相手の信仰を否定したいのではない。そこで<救われた>事実をも否定しない。私が問題にするのは、その宗教団体が人を<だまして金品を巻き上げ、それを正当化している>からだ。時には<人を死に追い詰めて殺し>てさえもいるからだ。何を信じていてもいいが、許されないことがある。悪に加担していることを知っているなら、必死で止めなければならない。信仰は<盗むこと><殺すこと>で正しくされるのではない。皆さん、そのことを自覚してほしい。そのために脱会させるしか、彼らと対話する方法がないので、やむを得ずやっているのです」

 

牧師先生の脱会活動の原点は「統一協会がカルトだから」「オウム真理教がカルトだから」ではなく、「犯罪行為に加担してほしくない家族がいるから」ということだったのです。「カルトというレッテルを貼るため」に活動していたわけではないのです。

 

牧師先生が欲したのは、「特定の宗教団体のためなら悪事をも正当化する教義」でいっぱいのカルト信者の方に、「人としてなら当然に与えられている良心を回復してもらうこと」だったのだ、と私は考えています。

 

ちなみに、その牧師先生はすでに「天国」におられる故・川崎経子先生です。川崎先生は統一協会やオウム真理教からの救出活動に長年取り組まれた先生です。牧師を引退した後にも、脱会者の心のケアや社会復帰を支援するために「いのちの家」を創設し、生活を共にしながら脱会者やその家族を支え続けました。

 

そして、このような議論にお付き合いくださったのは、今は日本基督教団で牧師をされておいでの山本隆久先生でした。

 

この度、麻原死刑囚をはじめとする教団元幹部たちの死刑が執行されたことで、一つの区切りとなりました。これを読まれた皆さんには、何が「カルト」と呼ばれる団体の本質なのか、ということをあらためて考えていただきたいと思っています。