夏の間歌い続けていたキリギリスは冬に餓えて死に、働き者の蟻は夏場の蓄えで厳しい冬を乗り切る。
そんな話。

一部では親切な蟻がキリギリスに食べ物を分けてあげて、お礼にキリギリスがバイオリンを演奏してお返しする、というラストもあるそうで。
この話だと「たまたま親切な蟻が居た」のがキーになっているが、例えばもし、キリギリスに蟻や他の昆虫・動植物に対して「来年も生きていて欲しい」と思わせるだけの魅力があればどうだろうか?
「貴女の歌をまた来年も聞きたい。この冬は私たちの蓄えた食べ物で生きながらえて、来年もぜひその素敵な歌を聞かせて欲しい」
という結末になるのは必然ではなかろうか?

いや、「もし」の話ではない。
蟻たちの中にはもしかすると、「食べ物をあげよう」と巣の近くまで導いて、既に衰弱しきったキリギリスを餌にしてしまう者も居るかもしれない。
そうならないためにも、キリギリスは冬を越す為に「他の働く生き物」を虜にするだけの魅力を備える必要があるのだ。
それが、キリギリスとして生きるということなのだ。

冬を越せないキリギリスが居るなら、それはきっとキリギリスとして生きるために必要な魅力を備えられなかった、ただただ好きなように歌い続け、「相手を惹きつける」事を愚かにしてしまった結果なのだろう。

頭の中がまとまっていないので徒然と。
まぁいつものこと。

基本的に私は、「不平不満」は言わないようにしている。
相手のことを想って「ココが悪い」と指摘してあげるのはとても有意義なことだ。
でもそれなら相手に直接言えばいい。もしくは「相手に間接的に伝わることを期待して」誰かに打ち明けるべきだ。
そうじゃない、ただの陰口なら、それを言葉にして表現するだけ時間の無駄だ。まして嫌いな相手なら、どうでもいい相手の話なら尚更。
そんな無駄な時間は過ごしたくない。

別の視点で、不平不満を感じるようになるまでにはおよそ幾つかのプロセスがあって、その中には少なからず「自分自身が主体のプロセス」が混じっている。
自分自身にとって一番有意義なのは、この「不平不満を感じてしまう原因になった、自分自身の悪い部分を直す」事だと思う。
だから、どうでもいい他人の悪い部分には目もくれず、私は自分自身をより良くすることに執着する。
以前にもどこかで書いたかもしれないが、
「他者に原因の一端が、あるいは大部分があったとして、それは自分自身の悪い所を反省しなくてよい理由にはならない」
のだ。
目を背けていはいけない。
自分自身を良く見て、反省して。
それを繰り返していくしかないんだ。