語るぞ!J-POP

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30代、男です。新旧問わず、J-POPの作品に関して、僕の思うところを、好き勝手に書いていく、というもの。不定期掲載です。

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「電車男」を本気で見ていたので、僕は主題歌にも期待してしまったのだが、この「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」は、いろいろな意味ですごい曲だと思った。

ミュージックステーションではじめてサンボマスターを見た。語弊を怖れずに言うならば、ボーカル・ギターの山口は、曲がはじまるより前に、つまりMCの最中にもう、十分に「イッちゃって」いる雰囲気を醸し出していた。何かを見すぎていているのだが、一方で明らかに何かを見落としている目、というか、そんな類の目をしていた。それがたまらなくよかった。で、それを受けるタモリも良かった。山口の話を、その本質を聞き逃さず、淡々と聞いていた。すごいと思った。そういえば、イッちゃっている人とタモリの相性は抜群に良い。例えば、Coccoとタモリもそう。
話を戻す。「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」の何がすごいのか。

「叫び」とか「絶叫」とかいう言葉でサンボマスターは語られる。確かにそうなのだけど、その言葉にだけ囚われていると、大切なところを見落としてしまう。ではその、大切なところとは何か。それは、作中主体の、痛々しいほどの「コミュニケーションの希求」だ。

昨日のあなたが 偽だと言うなら
昨日の景色を 捨てちまうだけだ

1番のBメロの歌詞。これは開き直りだろうか。おそらく違うだろう。「偽」とわかったときに誰よりも傷付くのは、作中主体自身なのだ。それを言わば逆の形で表現しているのではないか。小学生男子が好きな女子をいじめてしまう感覚に似ているかもしれない。冗談ではなく、僕は本気でそう思う。僕はそれを、青春(というかコドモ)をいつまでも引きずっている人間の「臆病さ」「ナイーブさ」として聞いた。サビにこんなふうにあるのだ。

心の声をつなぐのが
これ程怖いモノだとは

あなたのために歌うのが
これ程怖いモノだとは

作中主体は「本当のコミュニケーション」を願い、求めている。表面的なものでない、真実のつながり。けれど僕たちの世代は、真実のつながりなど、経験したことはない。はじめから圧倒的な量の情報に翻弄されていた僕たちは、その中で、本当の愛・友情・コミュニケーションの存在を言い聞かされてきたけれど、現実にはそんなものはなかった。(それを知ったとき、僕らはどうするのか。どうなったのか。それはとりあえず措く。)

現実には存在しないはずの「本当のコミュニケーション」を希求する者が、観念でなくて、現実において他者と繋がろうとするとき、何を感じるのか。他者を希求することにおいて、恥ずかしげもなく「本当の愛」を叫ぶ者が、本気でそれを得たり与えたりしようとするとき、何を感じるのか。それが「怖いモノ」なのだろう。「あなたのために歌うのが これ程怖いモノだとは」。このナイーブさはなんだ。Aメロもコード進行も、そういえば荒々しさからは遠い。とても繊細なのだ。ギターの一音一音も、とてもやさしく聞こえる。

ナイーブさと同居する「叫び」「絶叫」だから、その叫びは形骸化しない。

終盤、「愛と平和」と繰り返し叫んだあと、山口は絞り出すようにして「悲しみで花が咲くものか」と歌う。この猛烈な哀しさ。怨念のような、しかし、いくら叫んでも決して「怨念」というほどの強い思いには届かないような、この絶叫。繰り返し聞くほどに、「愛と平和」が叶わないことを確かめるようで、哀しいのだ。

このナイーブさは、確実に現代のある側面を切り取っている。絶叫と共に置かれた痛々しいほどの繊細さは、まさしくこの「今」の一部だ。サンボマスター「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」はまさに、現代の日本語によるロックなのだと思う。だからあんまり恥ずかしくない。
僕はたまに、トップ10チャートにぎりぎり入るか入らないかの歌に、ものすごくはまったりします。ヒットしたともしていないとも言えないような、微妙な歌にやられてしまう。
B.B.クイーンズの「ぼくらの七日間戦争~Seven Days Dream~」も、そのような歌のひとつです。映画「ぼくらの七日間戦争2」の主題歌。

坪内唯子はB.B.クイーンズで、とても幼い声で歌っていました。「おどるポンポコリン」では、たしか制作の段階で、録音した歌の再生スピード上げて、加工し、幼い声をわざと演出していたはずです。あれは作られた声だったんですね。「ぼくらの七日間戦争」ではそこまではやっていないと思うのですが、幼い声に違いはない。
2番のAメロです。

波によろめいて
くちびるを開いた
そう バカンスの恋
駆け抜ける 夕立ちのあとに
二人の夜が 壊れてゆく

幼い声とはバランスのとれない内容です。解散したSPEEDがデビューした頃、曲の歌詞がメンバーの年齢にそぐわない、ギャップがある、ということで話題になっていましたが、それとは比べものにならないと思います。声と内容が、明らかに合っていない。アレンジも実にさわやかで、「夏」を演出しています。極端にバランスが悪いとも言えるんです。それなのにこの歌には、妙な説得力があると思います。それはなぜなのか。
冒頭のサビです。

青い夏のまぼろし Sevenday’s My dream
もう一度 会いたいよ
思いがけぬ 胸を焦がす出逢いの
Oh 偶然の奇跡よ

この歌のテーマは「あの夏」です。過ぎ去った夏をせつなく思い出す、という内容。ありがちなんですね。でも、この歌においてはそれが問題にならない。なぜなのでしょうか。その理由は、他でもなく、坪内唯子の「幼い声」にあるのだと思います。そしてそれこそが、「説得力」につながっていくんです。

大ヒット曲「おどるボンポコリン」や「ギンギラバラダイス」は、言ってみれば「子供向け」の歌でした。だから幼い声に違和感はなかった。むしろ、幼い声でなければならなかった。それが「ぼくらの七日間戦争」でガラリと変わってしまう。内容が一気に「大人向け」になってしまうんですね。どちらかというとシリアスな。で、逆に考えてみます。つまり、もし幼い声ではなかったら「ぼくらの七日間戦争」はどうなるか、ということ。どのように聞こえるのか。
幼い声でなかったら、たぶん「ぼくらの七日間戦争」は、歌として失敗してしまったと思います。歌詞がベタすぎるからです。ありがちだからです。ありがちでベタな歌詞に、ベタな声や「あの夏」を演出するアレンジが加わったら、聞いていられないと思います。ある種のクサさがつきまとってしまうでしょう。
ここではじめて、「幼い声」が機能する。「幼い声」は、この歌から、情緒や感情を、良い意味で抜き取ってしまうんですね。「幼い声」だから歌がベタベタとしない。そして、ありがちな歌詞も気にならない。それどころか、切なさは増してしまうんです。

時が流れても Sevenday’s Our Dream
変わらないで いとしい人
青い夏のまぼろし Sevenday’s My dream
もう一度 会いたいよ

1番のサビです。きっとR&Bの有名女性歌手かなにかが歌ったら、情感が過剰になって聞いていられないと思います。泣きながら相手に訴えかけるような印象になってしまう。ベタベタとしてしまう。けれどもここでは、感情を抜き取るような声で「もう一度 会いたいよ」と歌われているんです。すると、歌詞の人物が、悲しいのにもかかわらず笑ったまま立ち尽くしているような、非常に微妙な切なさを背負って現れてくるんです。けれども、逆にこの切なさは強力ですよね。で、そこでさらに逆転現象が起こる。つまり、いくら切なくても、結局は幼い声ですから、聴き手は完全な感情移入ができない、ということです。そしてまた、感情移入はできないのだけれども、さらにひっくり返って、だからこそかえって切ない、という…。この、どこにも逃げ場のないような、「宙ぶらりんの切なさ」だけが、聴き手と歌を結んでいる。聴き手との距離のとり方がうまい歌なんだと思います。だからこそ、説得力があるんですね。何度聞いても飽きません。14年前の歌ですが、まだまだ聞けると思います。

「青い夏のまぼろし」とあります。J-POPの歌詞としては、それなりに厚みのある、キャッチーなフレーズだと思います。このフレーズが、絶妙なバランスで実現されたのが、「ぼくらの七日間戦争」なんだと思います。
古い話だが、「電車男」を本気で見ていた。僕は主題歌にも期待してしまうのだが、この「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」は、いろいろな意味ですごい曲だと思う。

ミュージックステーションではじめてサンボマスターを見た。語弊を怖れずに言うならば、ボーカル・ギターの山口は、曲がはじまるより前に、つまりMCの最中にもう、十分に「イッちゃって」いる雰囲気を醸し出していた。何かを見すぎていているのだが、一方で明らかに何かを見落としている目、というか、そんな類の目をしていた。それがたまらなくよかった。で、それを受けるタモリも良かった。山口の話を、その本質を聞き逃さず、淡々と聞いていた。すごいと思った。そういえば、イッちゃっている人とタモリの相性は抜群に良い。例えば、Coccoとタモリもそう。(明日のミュージックステーションにSINGER SONGERが出演する。Coccoとタモリの絡みがちょっとだけ楽しみ。)

話を戻す。「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」の何がすごいのか。

「叫び」とか「絶叫」とかいう言葉でサンボマスターは語られる。確かにそうなのだけど、その言葉にだけ囚われていると、大切なところを見落としてしまう。ではその、大切なところとは何か。それは、作中主体の、痛々しいほどの「コミュニケーションの希求」だ。

昨日のあなたが 偽だと言うなら
昨日の景色を 捨てちまうだけだ

1番のBメロの歌詞。これは開き直りだろうか。おそらく違うだろう。「偽」とわかったときに誰よりも傷付くのは、作中主体自身なのだ。それを言わば逆の形で表現しているのではないか。小学生男子が好きな女子をいじめてしまう感覚に似ているかもしれない。冗談ではなく、僕は本気でそう思う。僕はそれを、青春(というかコドモ)をいつまでも引きずっている人間の「臆病さ」「ナイーブさ」として聞いた。サビにこんなふうにあるのだ。

心の声をつなぐのが
これ程怖いモノだとは

あなたのために歌うのが
これ程怖いモノだとは

作中主体は「本当のコミュニケーション」を願い、求めている。表面的なものでない、真実のつながり。けれど僕たちの世代は、真実のつながりなど、経験したことはない。はじめから圧倒的な量の情報に翻弄されていた僕たちは、その中で、本当の愛・友情・コミュニケーションの存在を言い聞かされてきたけれど、現実にはそんなものはなかった。(それを知ったとき、僕らはどうするのか。どうなったのか。それはとりあえず措く。)

現実には存在しないはずの「本当のコミュニケーション」を希求する者が、観念でなくて、現実において他者と繋がろうとするとき、何を感じるのか。他者を希求することにおいて、恥ずかしげもなく「本当の愛」を叫ぶ者が、本気でそれを得たり与えたりしようとするとき、何を感じるのか。それが「怖いモノ」なのだろう。「あなたのために歌うのが これ程怖いモノだとは」。このナイーブさはなんだ。Aメロもコード進行も、そういえば荒々しさからは遠い。とても繊細なのだ。ギターの一音一音も、とてもやさしく聞こえる。

ナイーブさと同居する「叫び」「絶叫」だから、その叫びは形骸化しない。

終盤、「愛と平和」と繰り返し叫んだあと、山口は絞り出すようにして「悲しみで花が咲くものか」と歌う。この猛烈な哀しさ。怨念のような、しかし、いくら叫んでも決して「怨念」というほどの強い思いには届かないような、この絶叫。繰り返し聞くほどに、「愛と平和」が叶わないことを確かめるようで、哀しいのだ。

このナイーブさは、確実に現代のある側面を切り取っている。絶叫と共に置かれた痛々しいほどの繊細さは、まさしくこの「今」の一部だ。サンボマスター「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」はまさに、現代の日本語によるロックなのだと思う。だからあんまり恥ずかしくない。