「電車男」を本気で見ていたので、僕は主題歌にも期待してしまったのだが、この「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」は、いろいろな意味ですごい曲だと思った。
ミュージックステーションではじめてサンボマスターを見た。語弊を怖れずに言うならば、ボーカル・ギターの山口は、曲がはじまるより前に、つまりMCの最中にもう、十分に「イッちゃって」いる雰囲気を醸し出していた。何かを見すぎていているのだが、一方で明らかに何かを見落としている目、というか、そんな類の目をしていた。それがたまらなくよかった。で、それを受けるタモリも良かった。山口の話を、その本質を聞き逃さず、淡々と聞いていた。すごいと思った。そういえば、イッちゃっている人とタモリの相性は抜群に良い。例えば、Coccoとタモリもそう。
話を戻す。「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」の何がすごいのか。
「叫び」とか「絶叫」とかいう言葉でサンボマスターは語られる。確かにそうなのだけど、その言葉にだけ囚われていると、大切なところを見落としてしまう。ではその、大切なところとは何か。それは、作中主体の、痛々しいほどの「コミュニケーションの希求」だ。
昨日のあなたが 偽だと言うなら
昨日の景色を 捨てちまうだけだ
1番のBメロの歌詞。これは開き直りだろうか。おそらく違うだろう。「偽」とわかったときに誰よりも傷付くのは、作中主体自身なのだ。それを言わば逆の形で表現しているのではないか。小学生男子が好きな女子をいじめてしまう感覚に似ているかもしれない。冗談ではなく、僕は本気でそう思う。僕はそれを、青春(というかコドモ)をいつまでも引きずっている人間の「臆病さ」「ナイーブさ」として聞いた。サビにこんなふうにあるのだ。
心の声をつなぐのが
これ程怖いモノだとは
あなたのために歌うのが
これ程怖いモノだとは
作中主体は「本当のコミュニケーション」を願い、求めている。表面的なものでない、真実のつながり。けれど僕たちの世代は、真実のつながりなど、経験したことはない。はじめから圧倒的な量の情報に翻弄されていた僕たちは、その中で、本当の愛・友情・コミュニケーションの存在を言い聞かされてきたけれど、現実にはそんなものはなかった。(それを知ったとき、僕らはどうするのか。どうなったのか。それはとりあえず措く。)
現実には存在しないはずの「本当のコミュニケーション」を希求する者が、観念でなくて、現実において他者と繋がろうとするとき、何を感じるのか。他者を希求することにおいて、恥ずかしげもなく「本当の愛」を叫ぶ者が、本気でそれを得たり与えたりしようとするとき、何を感じるのか。それが「怖いモノ」なのだろう。「あなたのために歌うのが これ程怖いモノだとは」。このナイーブさはなんだ。Aメロもコード進行も、そういえば荒々しさからは遠い。とても繊細なのだ。ギターの一音一音も、とてもやさしく聞こえる。
ナイーブさと同居する「叫び」「絶叫」だから、その叫びは形骸化しない。
終盤、「愛と平和」と繰り返し叫んだあと、山口は絞り出すようにして「悲しみで花が咲くものか」と歌う。この猛烈な哀しさ。怨念のような、しかし、いくら叫んでも決して「怨念」というほどの強い思いには届かないような、この絶叫。繰り返し聞くほどに、「愛と平和」が叶わないことを確かめるようで、哀しいのだ。
このナイーブさは、確実に現代のある側面を切り取っている。絶叫と共に置かれた痛々しいほどの繊細さは、まさしくこの「今」の一部だ。サンボマスター「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」はまさに、現代の日本語によるロックなのだと思う。だからあんまり恥ずかしくない。
ミュージックステーションではじめてサンボマスターを見た。語弊を怖れずに言うならば、ボーカル・ギターの山口は、曲がはじまるより前に、つまりMCの最中にもう、十分に「イッちゃって」いる雰囲気を醸し出していた。何かを見すぎていているのだが、一方で明らかに何かを見落としている目、というか、そんな類の目をしていた。それがたまらなくよかった。で、それを受けるタモリも良かった。山口の話を、その本質を聞き逃さず、淡々と聞いていた。すごいと思った。そういえば、イッちゃっている人とタモリの相性は抜群に良い。例えば、Coccoとタモリもそう。
話を戻す。「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」の何がすごいのか。
「叫び」とか「絶叫」とかいう言葉でサンボマスターは語られる。確かにそうなのだけど、その言葉にだけ囚われていると、大切なところを見落としてしまう。ではその、大切なところとは何か。それは、作中主体の、痛々しいほどの「コミュニケーションの希求」だ。
昨日のあなたが 偽だと言うなら
昨日の景色を 捨てちまうだけだ
1番のBメロの歌詞。これは開き直りだろうか。おそらく違うだろう。「偽」とわかったときに誰よりも傷付くのは、作中主体自身なのだ。それを言わば逆の形で表現しているのではないか。小学生男子が好きな女子をいじめてしまう感覚に似ているかもしれない。冗談ではなく、僕は本気でそう思う。僕はそれを、青春(というかコドモ)をいつまでも引きずっている人間の「臆病さ」「ナイーブさ」として聞いた。サビにこんなふうにあるのだ。
心の声をつなぐのが
これ程怖いモノだとは
あなたのために歌うのが
これ程怖いモノだとは
作中主体は「本当のコミュニケーション」を願い、求めている。表面的なものでない、真実のつながり。けれど僕たちの世代は、真実のつながりなど、経験したことはない。はじめから圧倒的な量の情報に翻弄されていた僕たちは、その中で、本当の愛・友情・コミュニケーションの存在を言い聞かされてきたけれど、現実にはそんなものはなかった。(それを知ったとき、僕らはどうするのか。どうなったのか。それはとりあえず措く。)
現実には存在しないはずの「本当のコミュニケーション」を希求する者が、観念でなくて、現実において他者と繋がろうとするとき、何を感じるのか。他者を希求することにおいて、恥ずかしげもなく「本当の愛」を叫ぶ者が、本気でそれを得たり与えたりしようとするとき、何を感じるのか。それが「怖いモノ」なのだろう。「あなたのために歌うのが これ程怖いモノだとは」。このナイーブさはなんだ。Aメロもコード進行も、そういえば荒々しさからは遠い。とても繊細なのだ。ギターの一音一音も、とてもやさしく聞こえる。
ナイーブさと同居する「叫び」「絶叫」だから、その叫びは形骸化しない。
終盤、「愛と平和」と繰り返し叫んだあと、山口は絞り出すようにして「悲しみで花が咲くものか」と歌う。この猛烈な哀しさ。怨念のような、しかし、いくら叫んでも決して「怨念」というほどの強い思いには届かないような、この絶叫。繰り返し聞くほどに、「愛と平和」が叶わないことを確かめるようで、哀しいのだ。
このナイーブさは、確実に現代のある側面を切り取っている。絶叫と共に置かれた痛々しいほどの繊細さは、まさしくこの「今」の一部だ。サンボマスター「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」はまさに、現代の日本語によるロックなのだと思う。だからあんまり恥ずかしくない。
