最近、1986年1月に出版された聖子さんの自叙伝を韓国語に翻訳しながら読みました。

その中で沖縄襲撃事件について書かれている部分を翻訳していたのですが、あまりにも衝撃的な内容だったので、日本の方の中にも、事件について詳しくご存じない方がいらっしゃるかもしれないと思い、掲載することにしました。

当時の報道によって事件そのものは広く知られていましたが、何よりも、松田聖子さん本人があの日をどのような思いで過ごし、そしてどのように記憶しているのかということについては、今回この自叙伝を通して初めて詳しく知ることができました。

以下は、自叙伝に収録されている、沖縄襲撃事件についての回想です。

 

 

 

 

 

 

歌手になったことを後悔したことは、一度もない。けれど、ただ一つだけ、私には思い出したくない出来事がある。

それでも、それが事実である以上、自分の気持ちを整理するためにも、ここに書き留めておこうと思う。

昭和58年(1983年)の春、3月28日のことだった。

那覇空港に降り立つと、もう春の終わりを思わせるような甘い香りを含んだ風が頬を撫でた。一週間前に東北地方で浴びた風とは比べものにならないほど暖かく、前日まで続いていたツアーの疲れも、すっと消えていくような気がした。

その日の「松田聖子スプリング・コンサート」夜の部は、沖縄市立体育館で午後6時30分に幕を開けた。満員の観客の熱気で汗が流れたけれど、それさえも心地よく、コンサートはとてもいい雰囲気の中で進んでいた。

「渚のバルコニー」を歌っている時だった。もうコンサートも終盤に差しかかっていた。

黄色いジャンパーを着た一人の男性が、ステージの上へ走ってくるのが目に入った。テレビ「ザ・トップテン」が現地から生中継をする予定になっていたので、私は当然、番組の関係者なのだと思った。

でも、どうして歌っている途中にステージへ上がってくるのだろうと、一瞬、不思議に思った。

その時だった。

男の腕が、私に向かって思いきり振り下ろされた。

頭から血が噴き出した。顔からも血が流れ落ちた。白いサテンのステージ衣装が、たちまち真っ赤に染まった。

 

「私は今、いったい何をされているんだろう。どうして、何のために……」

 

死ぬかと思った。

目の前のすべてが、血のような赤に染まっていった。

その瞬間から、私の記憶は途切れている。

今でも、どんなに思い出そうとしても、頭の中は真っ白な空白のままだ。

当然、コンサートはすぐに中止となり、6000人が集まっていた会場は大混乱に陥ったという。

病院へ向かう救急車の中で、私は泣き叫んでいたそうだ。泣けば余計に痛かったはずなのに、それでも我慢できなかったらしい。痛みというより、恐怖から流した涙だったのだと思う。ほとんど正気ではいられない状態だったと、後になってスタッフから聞かされた。

病院に運ばれてからもしばらくは、何も覚えていない。

かすかに記憶が戻ってきたのは、レントゲン撮影の時だった。撮影のために右手の指輪を外そうとしたのだけれど、指がひどく腫れていて、どうしても抜くことができなかった。

医師は言った。

 

「完治するまで一週間から十日ほどでしょう。大事に至らなくてよかったですね」

 

その言葉を聞いて、ほっと胸を撫で下ろした。

けれど、頭の傷はズキズキと痛み続けた。まるで頭だけが別の生き物になってしまったように、絶え間なく苦痛が続いた。

その夜は、カーテンがかすかな風に揺れる音を聞いただけでも、びくっとしてしまった。ほとんど一睡もできなかった。

それでも朝になると、少しずつ冷静さを取り戻していた。

両親には、現場を見てショックを受けてほしくなかったので、スタッフを通して、

 

「明日には帰れそうだから、来なくても大丈夫」

と伝えておいた。

 

ところが翌朝、包帯を巻かれた右手を見つめていると、両親と兄が病室へ飛び込んできた。

しばらく、何も言うことができなかった。

 

「お母さん……」

 

そう言おうとした声が、そのまま泣き声に変わってしまった。

母は静かに私の肩を抱きしめながら言った。

 

「怖かったでしょう? もう大丈夫よ」

 

私は声を上げて泣いた。

張りつめていた糸が、ぷつんと切れたようだった。

母の顔を見た瞬間、安堵感が押し寄せてきた。同時に、あの悪夢のような瞬間が鮮明によみがえってきた。

父と兄もこの日は仕事を休み、相澤社長と一緒に始発の飛行機に乗って駆けつけてくれたのだという。

前夜のニュースで事件を知って、どれほど驚いたことだろう。遠く離れていたからこそ、余計に不安だったに違いない。

後になって警察の調べで、私は棚などを支える時に使うL字型のステンレス製の棒で、頭を六、七回も殴られていたことを知った。

右腕と右手の傷は、頭をかばおうとして手を頭の上に上げた時にできたものだった。

頭の傷は、場所が場所だけにみんなが心配したけれど、脳波検査の結果、幸い異常はなかった。

その後、丸一週間、すべての仕事をキャンセルして自宅で療養した。もちろん、一歩も外へ出なかった。

見知らぬ人も、人の多い場所も怖かった。

このまま対人恐怖症になってしまうのではないか、とまで思った。

両親と一緒にいる時は大丈夫だったけれど、一人で部屋にいると、母がドアをノックする音にさえ驚いてしまった。

 

「こんな目に遭うくらいなら、もう歌をやめたい」

 

そう思った。

三日、四日ほど経った頃、ふとこんなことを考えた。

 

「これは神様が私にくださった休暇なんじゃないか」

 

17歳で上京して以来、ほとんど4年間、私は自分の時計も、自分のカレンダーも持たず、ただ前だけを見て走り続けてきた。

疲れ果てて倒れてもおかしくない頃だった。

 

「少しの間だけでも立ち止まって、休んでごらんなさい」

 

神様が、そんな機会を与えてくださったのかもしれないと思った。

そう考えると、少しずつ心が落ち着いていった。

もともと楽天的な性格なので、つらいことが起きた時には、できるだけいい方向に受け止めようとするところがある。

もしかしたら、それは少しでも傷つかないように、自分自身を守ろうとする本能だったのかもしれない。

一週間の休養を終え、再び熊本のステージに立った。

マイクを見た瞬間、また恐怖が込み上げてきた。

 

「大丈夫だろうか。最後まで歌えるだろうか」

 

一曲目、二曲目では、手や体がかすかに震えているのを、自分でも感じていた。

なんとかアンコールまで歌い終え、幕が下りた時、客席にいたすべての人たちとスタッフの皆さんに、**「ありがとうございます」**と言いたい気持ちでいっぱいだった。

右手のしびれはまだ残っていたけれど、安堵感で胸がいっぱいだった。

そして私は、心の中で静かにつぶやいた。

 

「私が帰ってくる場所は、やっぱりここだったんだ」

 

半年ほど経ち、ようやく心の平静を取り戻した頃、あの事件の時のビデオを見ることを決心した。

自分自身のことなのだから、自分の目ではっきりと確認したかったからだ。

ビデオには、私が襲われる場面がそのまま記録されていた。

汗を流しながら「渚のバルコニー」の最後の部分を歌っている私。

突然ステージに走り込んできた青年を見つけ、思わず身を引く私の顔。

地獄のような瞬間が始まる直前、恐怖におびえた私の表情が、そのまま残されていた。

 

「やめて!」

 

私はそう叫んだ。

その瞬間、吐き気が込み上げてきた。

吐いてしまいそうな気分になり、洗面所へ駆け込んだ。

凶器が振り下ろされるたびに、テレビからも鈍い音がそのまま聞こえていたそうだけれど、その後、私はその映像を二度と見ることはなかった。

だから、その音を聞くことも、永遠になくなった。

事件直後、警察は犯人が埼玉県の精神病院に入院していた29歳の青年で、外泊許可を得て沖縄ツアーに参加していたことを知らせてくれた。

その話を聞いた瞬間、それまで頭の中をいっぱいにしていた怒りが、すっと消えていった。

仕方のないことなのだと思った。

病気を患っている人を恨むことはできなかった。

なぜ私がそのような人に、あれほど殴られなければならなかったのか。あまりにも理不尽だったという思いは、今でも残っている。

けれど、病気を抱えている人を恨んでみても、何の意味もないと思った。

自宅で療養している時、母がため息をつきながら静かに言った。

 

「あの子のご両親は、どれほどつらいでしょうね。その痛みだけは、則子も否定できないのよ」

 

子を持つ親の気持ちは、みんな同じなのだという。

普通なら、自分の娘をこんな目に遭わせた相手を憎むのが当然なのだろう。

けれど、母は一言も相手を恨むことを口にしなかった。

それもまた、一つの強さなのかもしれないと、私は母の顔を見つめた。

後になって記者会見で私が、

 

「妄想の中でやったことを、責める気にはなれません」

 

という趣旨の発言をした時、ある人たちは、あまりにも優等生的な発言だと言った。

けれど、母の影響とは関係なく、それが私の偽らざる気持ちだった。

もし正気の人があんなことをしたのなら、私は怒っていただろう。

でも、あの青年については、仕方のないことなのだと、すぐに受け入れることができた。

その代わり私は、スタッフたちに、会場の運営に問題がなかったのかを尋ねたかった。

警備も十分ではなかったし、ステージがあまりにも低く、客席との距離が近すぎたことが、ずっと気になっていたからだ。

初日のステージに立った時から、**「こんなに低いステージでは危険じゃないかしら」**と思っていた。

でも、ステージの問題なら、次の公演からその教訓を生かせばいい。

幸い、外傷だけで済んだのだから、私は気持ちを切り替えた。

何よりも、あの出来事を乗り越えてしまうほど、ステージには大きな魅力があった。

コンサートでつらい思いをしたのなら、これからはコンサートで、もっとたくさんのいい思い出を作ればいい。

そうやって自分自身を励ましながら、私は次のステージへ向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

私は、聖子さんならこの出来事も、いつものあの淡々とした姿で乗り越えていたのだろうと、漠然と思っていました。

けれど実際には、その後も長い間、大きな恐怖と苦しみを抱えていたことを知り、とても胸が痛むと同時に、驚きました。