近習平について、最近、面白い噂を聞いた。どうやら彼は、所謂「市場主義者」らしいのである。共産主義者の市場主義つて何だよ。
僕などはバブルの頃は友人達に市場主義者と想はれてゐた。今でも役人の調整能力よりは、市場の調整能力を信じてゐる。その信念は、最近の消費税騒で強化された。
だが、支那で市場主義は駄目だらう。これもバブルの頃から、僕の信念である。僕の友人などは、支那の經濟問題は市場では解決できない、といふ僕の意見を變に想つてゐた。
支那と日本とは、何處が違ふのだ、といふのである。簡單な話である。支那は何時まで經つても未開な社會であり、日本は近代社會だからだ。
經濟人類學では、再配分と互酬、交換(市場)のうち、市場のみが肥大化した社會を市場社會といふ。日本は典型的な市場社會であり、支那は今日でも市場社會ではない。
それが市場社會なら、經濟的な問題の幾つか(全てではないと僕は想ふ)は市場の調整能力で解決可能だらう。處が支那は學問的には市場社會には分類されてゐない。
現在でも支那の富の分配は、市場ではなく再配分と互酬が大きな割合を占めるのだ。つまり、市場社會でない國で經濟問題を市場の調整能力だけで解決するには無理があるのだ。
近代國家では、經濟問題を何處まで市場で解決し、何處からを政府の政策で解決するかといふのは今日でも大きな論爭の的になつてゐる。
全て市場で解決すべし、といふ完全な市場主義者から、そもそも市場の調整能力は不完全と考へる人(僕もこの立場、ただ通常は政治家や役人の調整能力よりも市場の調整能力が高いと想つてる)まで、樣々である。
それでも經濟問題の幾つかは市場で解決すべきである。會社の管理職を一定以上の比率で女にすべきだ、などとは、正氣の發想とは思へない。明らかに政府による不正な介入である。
だがかうした問題は、支那には當嵌らない。市場社會が成立してゐない國で市場主義を稱へても、虚しいだけだらう。
本當に市場主義で經濟の問題を解決したいなら、先づ自由選挙といふ市場原理を取入て少しづつ市場社會を成立させるべきではないのか。
僕などはバブルの頃は友人達に市場主義者と想はれてゐた。今でも役人の調整能力よりは、市場の調整能力を信じてゐる。その信念は、最近の消費税騒で強化された。
だが、支那で市場主義は駄目だらう。これもバブルの頃から、僕の信念である。僕の友人などは、支那の經濟問題は市場では解決できない、といふ僕の意見を變に想つてゐた。
支那と日本とは、何處が違ふのだ、といふのである。簡單な話である。支那は何時まで經つても未開な社會であり、日本は近代社會だからだ。
經濟人類學では、再配分と互酬、交換(市場)のうち、市場のみが肥大化した社會を市場社會といふ。日本は典型的な市場社會であり、支那は今日でも市場社會ではない。
それが市場社會なら、經濟的な問題の幾つか(全てではないと僕は想ふ)は市場の調整能力で解決可能だらう。處が支那は學問的には市場社會には分類されてゐない。
現在でも支那の富の分配は、市場ではなく再配分と互酬が大きな割合を占めるのだ。つまり、市場社會でない國で經濟問題を市場の調整能力だけで解決するには無理があるのだ。
近代國家では、經濟問題を何處まで市場で解決し、何處からを政府の政策で解決するかといふのは今日でも大きな論爭の的になつてゐる。
全て市場で解決すべし、といふ完全な市場主義者から、そもそも市場の調整能力は不完全と考へる人(僕もこの立場、ただ通常は政治家や役人の調整能力よりも市場の調整能力が高いと想つてる)まで、樣々である。
それでも經濟問題の幾つかは市場で解決すべきである。會社の管理職を一定以上の比率で女にすべきだ、などとは、正氣の發想とは思へない。明らかに政府による不正な介入である。
だがかうした問題は、支那には當嵌らない。市場社會が成立してゐない國で市場主義を稱へても、虚しいだけだらう。
本當に市場主義で經濟の問題を解決したいなら、先づ自由選挙といふ市場原理を取入て少しづつ市場社會を成立させるべきではないのか。