「道徳ではなく修身を教へよ」は、僕の漢文の師の言葉である。子供に道徳のやうな抽象的な事を教へても理會できない。だから偉人の徳行の具體例を教へる。
「愛」のやうな基督教用語の飜譯だけでなく、教育勅語のやうな支那式な徳目も、子供に教へるには無理がある。これらの概念は、日本人にとつては異文化である。
保守派と呼ばれる人達の多くは誤解してゐるのだが、戰前の學校は教育勅語の内容を一々生徒に教へてゐた訣ではない。戰前も子供は教育勅語など理會できかつたのだ。
教育勅語は、急速な西洋化で社會がアノミーを起さないやうにといふ目的で作成された。つまり最初から大人用のもので、兒童教育とは關係ない。あの當時の社會には必要だつたのである。
それでも義理で年に一度くらゐは校長が教育勅語を朗読したが、それだけの事である。子供が理會できるとは想つてもゐないから、内容を逐一説明したりはしない。
兒童教育に必要なのは「道徳」や「教育勅語」ではなく「修身」なのである。義務教育に教育勅語を復活すれば日本は良くなると主張してゐる知人がゐるが、呆れてしまふ。
戰前の日本でさへ、教育勅語を兒童に教育したりはしかつた。戰前の兒童は修身で人の道を學んだのである。
同じやうに、石井勲博士は假名文字を教へる前に漢字を教よ、と主張してゐた。子供にとつて假名文字は、抽象的すぎて覺えるのが大變なのである。
だから最初に「山」や「川」、「鳥」などの象形文字を教へて、假名文字は「てにをは」から教へる。つまり最初から漢字假名交文で教育するのである。
子供には具體的なものから教へて最期には抽象的な概念に至る。これが兒童教育の王道なのである。
「愛」のやうな基督教用語の飜譯だけでなく、教育勅語のやうな支那式な徳目も、子供に教へるには無理がある。これらの概念は、日本人にとつては異文化である。
保守派と呼ばれる人達の多くは誤解してゐるのだが、戰前の學校は教育勅語の内容を一々生徒に教へてゐた訣ではない。戰前も子供は教育勅語など理會できかつたのだ。
教育勅語は、急速な西洋化で社會がアノミーを起さないやうにといふ目的で作成された。つまり最初から大人用のもので、兒童教育とは關係ない。あの當時の社會には必要だつたのである。
それでも義理で年に一度くらゐは校長が教育勅語を朗読したが、それだけの事である。子供が理會できるとは想つてもゐないから、内容を逐一説明したりはしない。
兒童教育に必要なのは「道徳」や「教育勅語」ではなく「修身」なのである。義務教育に教育勅語を復活すれば日本は良くなると主張してゐる知人がゐるが、呆れてしまふ。
戰前の日本でさへ、教育勅語を兒童に教育したりはしかつた。戰前の兒童は修身で人の道を學んだのである。
同じやうに、石井勲博士は假名文字を教へる前に漢字を教よ、と主張してゐた。子供にとつて假名文字は、抽象的すぎて覺えるのが大變なのである。
だから最初に「山」や「川」、「鳥」などの象形文字を教へて、假名文字は「てにをは」から教へる。つまり最初から漢字假名交文で教育するのである。
子供には具體的なものから教へて最期には抽象的な概念に至る。これが兒童教育の王道なのである。