先日、友人達と『平治物語』の勉強會をしたのだが、面白いことが起きた。先づ僕が、源義朝と源三位頼政か口論する場面が面しろかつた、と感想を述べた。
すると隣の席にゐた友人が、そんな場面なんて有りましたか、と疑問を呈した。僕は小學館から出てゐる『平治物語』を讀むだのだが、友人は岩波文庫だつたのである。
他にも別な出版社の『平治物語』を讀むだ人がゐて、それらに出て來るエピソードがバラバラなのである。つまり、テキストが異るのだ。
『保元物語』を讀むだ時もテキストによつては鎭西八郎爲朝についてのエピソードが矢鱈詳しかつたり、崇徳上皇のエピソードを中心に構成されたテキストがあつたりした。
まあどちらも大筋に違ひはないのだが、ある本に載つてゐるのに別な本に載つてゐないエピソードといふのが矢鱈に多い。
『伊勢物語』などはテキストの内容には大差ないのだが、後に成れば成る程、段(章)の數が増えていく。話がどんどん追加されてゐるのである。
『陸奧話記』などは漢文で書かれて讀む人も殆んどゐなかつたので、重要なエピソードが別のテキストには載つてゐない、といふ事はなかつたらうと想ふ。
同樣に『古事記』なども、江戸時代までは誰も關心を持たなかつたので、異本はそれほど多くはないはずだ。
まあ、『保元物語』や『平治物語』の異本などは、聖書の異本に比べれば種類が多いとは言へないのだが。
古蘭(クルアーン)などはどれくらゐ異本があるのだらうか。誰か(岡島さんとか)コメントしていただけると有難い。
同じ『平治物語』を讀むだつもりでも、テキストが異なれば内容が違つてゐる。かうした異本については、聖書のやうに誰かが系統で分類して呉れないだらうか(それとも系統圖はもう有るのか)
そして僕のやうな素人は、此の種の本は異なるテキストを何册か讀まなければ、全體像が掴めないのでは、と當惑してしまふのである。
すると隣の席にゐた友人が、そんな場面なんて有りましたか、と疑問を呈した。僕は小學館から出てゐる『平治物語』を讀むだのだが、友人は岩波文庫だつたのである。
他にも別な出版社の『平治物語』を讀むだ人がゐて、それらに出て來るエピソードがバラバラなのである。つまり、テキストが異るのだ。
『保元物語』を讀むだ時もテキストによつては鎭西八郎爲朝についてのエピソードが矢鱈詳しかつたり、崇徳上皇のエピソードを中心に構成されたテキストがあつたりした。
まあどちらも大筋に違ひはないのだが、ある本に載つてゐるのに別な本に載つてゐないエピソードといふのが矢鱈に多い。
『伊勢物語』などはテキストの内容には大差ないのだが、後に成れば成る程、段(章)の數が増えていく。話がどんどん追加されてゐるのである。
『陸奧話記』などは漢文で書かれて讀む人も殆んどゐなかつたので、重要なエピソードが別のテキストには載つてゐない、といふ事はなかつたらうと想ふ。
同樣に『古事記』なども、江戸時代までは誰も關心を持たなかつたので、異本はそれほど多くはないはずだ。
まあ、『保元物語』や『平治物語』の異本などは、聖書の異本に比べれば種類が多いとは言へないのだが。
古蘭(クルアーン)などはどれくらゐ異本があるのだらうか。誰か(岡島さんとか)コメントしていただけると有難い。
同じ『平治物語』を讀むだつもりでも、テキストが異なれば内容が違つてゐる。かうした異本については、聖書のやうに誰かが系統で分類して呉れないだらうか(それとも系統圖はもう有るのか)
そして僕のやうな素人は、此の種の本は異なるテキストを何册か讀まなければ、全體像が掴めないのでは、と當惑してしまふのである。