「和して同ぜず」といふ言葉があるが、皆樣は「和」と「同」の違(ちがひ)を御存知だらうか。これについては晏子が『左傳』で分り易い説明をしてゐる。


「和」とは羹(あつもの)を作る如きもの。水と火と、酢・醢・鹽・梅とを用ゐて魚や肉を煮込み、薪で熱を加へて宰夫がこれを調和します。


味を斉へ、足らねば味を補ひ、過ぎれば薄め、君子が食して心が平ぐやうにします。君臣の關係も同じこと。


國君が可としても不可なる點があれば、臣下はその不可なる點を進言して、國君の可とすることをさらに完成させる。


國君が不可としても可なる點があれば、臣下はその可なる點を進言して、國君の不可とすることを可に變へる。


かくて政治は平穏で禮儀に背かず、民に爭奪の心がなくなるのです(以下略、昭公二十年)


つまり、ただのイエスマンは「同」であつて「和」ではない、と言つてゐるのだ。調和の爲には言擧も必要なのである。


他國との友好を釋く人の多くが他國に同じて和する事がないのは、小人だからであらう。