僕が小學生だつた頃の教科書は、「ヤ」と「ア」とが共存してゐた。例へば「イタリヤ」と書かれてゐたり「イタリア」と書かれた教科書が混在してゐたのである。
それら片假名語の假名遣は、だいたい「ヤ」ではなく「ア」に統一されるやうになつた。だいたい、といふのは、統一されず「ヤ」と書かれるものもまだあるからである。
「ユダヤ」は普通、「ユダア」とは書かない。普通、といふのは、大川周明などは「ユダア」と書いてゐるからだ。
何故「イタリア」が「イタリヤ」といふ風に書かれたかといふと、昔の日本語の單語は語中語尾に母音を使はないのが原則だつたからである。
だから數學者の「ガロア」などは、戰前は「ガロワ」と書いたりした。まあ、本當は戰後にも「ガロワ理論」を解説した本は何册か出版されてゐるのだが。
片假名語「ヤ」を「ア」に統一するといふ假名遣も、實は變な原則である。「ダイヤモンド」の綴(つづり)は英語などでは「ア」だから「ダイアモンド」も良いだらう。
しかし「ロシヤ」のロシヤ語での表記は「ア(А)」ではなく「ヤ(Я)」である。原語の表記を變へてまで「ア」と統一する必要はない、と思ふのだが。
同じ事は前に述べた「ユダヤ」にも言へる。言語の表記は「ユダヤ」ではなく「ユダア」の筈である。何故、これだけ「ア」と表記しないのか理會に苦しむ。
日本の片假名語表記には此れ以外にも變なものが多いのだが、今囘は「ヤ」と「ア」との書分けの問題だけに絞つて纒めてみた。
「ヤ」は「ア」に統一された訣ではないし、使分(つかひわけ)も無原則といふより無茶苦茶だ。
現代假名遣の「ジ」「ズ」や「ヂ」「ヅ」の使分(つかひわけ)と同樣に、無原則で無茶苦茶だから丸諳記するしかないのだ(例へば「地」は「チ」で「地震」は「ジシン」である)
それら片假名語の假名遣は、だいたい「ヤ」ではなく「ア」に統一されるやうになつた。だいたい、といふのは、統一されず「ヤ」と書かれるものもまだあるからである。
「ユダヤ」は普通、「ユダア」とは書かない。普通、といふのは、大川周明などは「ユダア」と書いてゐるからだ。
何故「イタリア」が「イタリヤ」といふ風に書かれたかといふと、昔の日本語の單語は語中語尾に母音を使はないのが原則だつたからである。
だから數學者の「ガロア」などは、戰前は「ガロワ」と書いたりした。まあ、本當は戰後にも「ガロワ理論」を解説した本は何册か出版されてゐるのだが。
片假名語「ヤ」を「ア」に統一するといふ假名遣も、實は變な原則である。「ダイヤモンド」の綴(つづり)は英語などでは「ア」だから「ダイアモンド」も良いだらう。
しかし「ロシヤ」のロシヤ語での表記は「ア(А)」ではなく「ヤ(Я)」である。原語の表記を變へてまで「ア」と統一する必要はない、と思ふのだが。
同じ事は前に述べた「ユダヤ」にも言へる。言語の表記は「ユダヤ」ではなく「ユダア」の筈である。何故、これだけ「ア」と表記しないのか理會に苦しむ。
日本の片假名語表記には此れ以外にも變なものが多いのだが、今囘は「ヤ」と「ア」との書分けの問題だけに絞つて纒めてみた。
「ヤ」は「ア」に統一された訣ではないし、使分(つかひわけ)も無原則といふより無茶苦茶だ。
現代假名遣の「ジ」「ズ」や「ヂ」「ヅ」の使分(つかひわけ)と同樣に、無原則で無茶苦茶だから丸諳記するしかないのだ(例へば「地」は「チ」で「地震」は「ジシン」である)