日本で賣られてゐる戰爭の入門書を數册、讀むで、或る意味で物凄くがつかりした。長谷川慶太郎、別宮暖朗、兵頭二十八、柘植久慶などの本だが、基本的にクラウゼヴィッツの注釋に近い。
まあかういふ基礎的な知識も或る程度は必要なのだが、僕には其の内容が餘りにも古めかしく感ぜられるのである。
二十年前にクレフェルトは『戰爭の變遷』で、時代遲れになつたクラウゼヴィッツの戰爭觀が各國の軍事政策を不合理に捻曲げてゐる事を指摘した。
例へば二十世紀後半には、戰爭主體が國家ではない非三位一體戰爭が現れる。政治の延長であり手段とはとても想へない戰爭が現實のものとなつたのである。
クラウゼヴィッツ自體、『戰爭論』では古代の戰爭など殆んど扱はなかつた。時代も社會状況も違ひすぎて、クラウゼヴィッツの時代の戰爭には役立たないからである。
僕には一次二次の世界大戰さへ、クラウゼヴィッツの想像を超えた戰爭だつたと想ふ。とくに一次大戰を制禦したのは、政治家ではなく軍の戰爭計畫である。
それは太平洋戰爭にも當てはまり、海軍の建てた眞珠灣作戰計畫が政治を無視して國家を暴走させた。
それは國家總動員と軍國主義の時代だが、日本や獨逸より徹底した軍國主義を合理的に追求した米國が勝利したのは當然だつた。ソフトウヱアの敗北である。
二次大戰の後は、世界大戰は起きなかつた。替りに登場したのが植民地解放などの低強度紛諍である。國家も軍隊も有たない解放勢力は次々と獨立を果した。
二次大戰後は、先進國の軍隊は國際紛諍解決の手段としては急速に無能化する。そして米蘇の冷戰も蘇聯倒潰で終了する。
冷戰(コールド・ウヲー)の後に、符號戰爭(コード・ウヲー)が始まつた。これも人類が過去に經驗した事がない戰爭だつた。
假想空間を主戰場とする符號戰爭については、法整備すら碌になされてゐない。戰爭法規だけでなく、民法や刑法などの通常の法も、である。
此の記事は戰爭解説が目的ではないので、簡單に結論をまとめて置く。クラウゼヴィッツの著作はナポレオン時代の戰爭を知る良き資料である。
ただし、其の後は國民總動員戰、低強度紛諍、符號戰爭などのとても政治の延長とは想へない新しい戰爭が生まれてゐる。
それはクラウゼヴィッツの戰爭論の枠には當てはまらない新しい戰爭である。クラウゼヴィッツを過信すると、かうした新しい戰爭には對處できなくなるのではないか。
クラウゼヴィッツの時代と現代とでは、最早、戰爭の前提が異なるのである。日本國民の多くが現代の新しい戰爭のリテラシーを身につける事を願つて止まないが、無理だらう。
少なくとも現在は、専門家にさへ戰爭の新しい現實が充分には見えてゐないのだから(僕は理會してゐる、などと言ふつもりも無い)
まあかういふ基礎的な知識も或る程度は必要なのだが、僕には其の内容が餘りにも古めかしく感ぜられるのである。
二十年前にクレフェルトは『戰爭の變遷』で、時代遲れになつたクラウゼヴィッツの戰爭觀が各國の軍事政策を不合理に捻曲げてゐる事を指摘した。
例へば二十世紀後半には、戰爭主體が國家ではない非三位一體戰爭が現れる。政治の延長であり手段とはとても想へない戰爭が現實のものとなつたのである。
クラウゼヴィッツ自體、『戰爭論』では古代の戰爭など殆んど扱はなかつた。時代も社會状況も違ひすぎて、クラウゼヴィッツの時代の戰爭には役立たないからである。
僕には一次二次の世界大戰さへ、クラウゼヴィッツの想像を超えた戰爭だつたと想ふ。とくに一次大戰を制禦したのは、政治家ではなく軍の戰爭計畫である。
それは太平洋戰爭にも當てはまり、海軍の建てた眞珠灣作戰計畫が政治を無視して國家を暴走させた。
それは國家總動員と軍國主義の時代だが、日本や獨逸より徹底した軍國主義を合理的に追求した米國が勝利したのは當然だつた。ソフトウヱアの敗北である。
二次大戰の後は、世界大戰は起きなかつた。替りに登場したのが植民地解放などの低強度紛諍である。國家も軍隊も有たない解放勢力は次々と獨立を果した。
二次大戰後は、先進國の軍隊は國際紛諍解決の手段としては急速に無能化する。そして米蘇の冷戰も蘇聯倒潰で終了する。
冷戰(コールド・ウヲー)の後に、符號戰爭(コード・ウヲー)が始まつた。これも人類が過去に經驗した事がない戰爭だつた。
假想空間を主戰場とする符號戰爭については、法整備すら碌になされてゐない。戰爭法規だけでなく、民法や刑法などの通常の法も、である。
此の記事は戰爭解説が目的ではないので、簡單に結論をまとめて置く。クラウゼヴィッツの著作はナポレオン時代の戰爭を知る良き資料である。
ただし、其の後は國民總動員戰、低強度紛諍、符號戰爭などのとても政治の延長とは想へない新しい戰爭が生まれてゐる。
それはクラウゼヴィッツの戰爭論の枠には當てはまらない新しい戰爭である。クラウゼヴィッツを過信すると、かうした新しい戰爭には對處できなくなるのではないか。
クラウゼヴィッツの時代と現代とでは、最早、戰爭の前提が異なるのである。日本國民の多くが現代の新しい戰爭のリテラシーを身につける事を願つて止まないが、無理だらう。
少なくとも現在は、専門家にさへ戰爭の新しい現實が充分には見えてゐないのだから(僕は理會してゐる、などと言ふつもりも無い)