僕の所屬してゐる勉強會で、今年は軍記物語を研究する事になつた。既に『將門記』や『陸奧話記』、『保元物語』を讀むでをり、次は『平治物語』の豫定である。


實は僕は、軍記物語の背景となつた時代に大きな關心を有(も)つてゐる。以前も書いたやうに、僕は天皇と將軍のやうな二元政治は幕府の成立以前から存在したと想つてゐる。


それは日本周邊の歐羅亞細亞の遊牧民族や南洋の諸文化に、聖王と俗王の二元政治文化が多く觀られるからだ。支那すら古代の周王朝は、そのやうな二元政治文化の國だつた。


つまり、常識的に日本で二元政治文化が誕生したのは幕府成立以降からだとは考へにくいのだ。日本も周邊の諸民族と同樣に、古代から二元政治文化が存在したと想ふのか自然だらう。


例へば推古朝の蘇我馬子などは、日本の俗王だつたに違(ちがひ)ない。蘇我氏を支那思想に氣觸れた中大兄皇子が滅すことで、政治の實權は天皇家が掌握する事になつた。


中大兄皇子の大化の改新後の經歴を簡單に觀てみよう。不思議なのは皇子がすぐには天皇の高御座を繼がなかつた事だ。叔父を擔いだり實母を踐祚させたりしてゐる。


これは天皇がそれまで聖王だつたため、天皇に即位しても政治的實權を握れないからだ。そして適當な天皇候補がゐなくなり、中大兄皇子が即位せざるを得なくなつたとき、太政大臣の役職がつくられる。


息子の大友皇子(弘文天皇)を日本史上最初の太政大臣に就任させる事で、中大兄皇子(天智天皇)は自分が天皇(聖王)に成つた後も政治的権力を保たうとした。


この方式は次代の天武天皇にも受繼がれ、日本で二人目の太政大臣は壬申の亂で大功を擧げた天武天皇の子、高市皇子である。


つまり、太政大臣は元々は皇族用のポストで、天智天皇によつて作られた新しい俗王のポストだつた。かうして皇室は、政治の實權を歴史上初めて手に入れるのである。


(初めてといふのは、元々大和朝廷の天皇達には政治的實權など殆んど無かつたらうからだ。天皇は豪族連合が擔いだ神輿で、さうして出來た連合政権を大和といふ)


ところがかうして政治的實權を掌握しても平安時代の天皇は所詮、聖王で、皇室も天皇の供給源に過ぎない。聖王だから穢れ仕事は忌避するやうになり、常備軍も死罪も廢止してしまふ。


天皇が政治の實權を握る事に無理があつたのである。元々聖王は穢れ仕事に手を出せないから、俗王が存在するのだ。


つまり、上に擧げた軍記物語は俗王不在の時代なのである。嚴密には平清盛は、幕府成立以前の俗王だつたと見做すべきかも知れないが。


そして軍記物語は、日本の俗王不在時代の貴重な記録なのである。軍記物語が媒體が漢文から國文に變化して行く樣も興味深い。


かうした軍記物語の面白さについては、今後の記事で少しづつ御紹介して行かう。