自ら瑕(きず)無き者、人を處刑すべし。此の言葉で皆さんは何を御想像されるだらう。新約聖書のイイススの言葉に少し似てゐるかも知れない。


此の言葉は、實は『春秋左氏傳』のものである。楚の靈王が齊の慶邦を處刑しようとした時、家臣の淑(本当は木偏だが字體が見つからない)擧が言つた言葉だ。


聖書の民とは違つて、楚の靈王は恥知らずだつた。だから聽入れずに之を處刑した。『左傳』は多分、漢時代に作られたものだから、イイススの言葉より古い筈である。


福音書は古いものでも三世紀くらゐに作られたものだし、もしかしたら此の言葉は公羊傳や穀梁傳にも載つてゐるかも知れない(實は僕はまだ讀むでゐない)


だとしたら、イイススの生まれる前からあつた言葉だらう。本當に、楚の靈王の時代の言葉すも知れない。


『左傳』の言葉が、新約聖書に影響を與へたといふ事もあつたのかも知れない。北歐羅亞細亞の遊牧民を通じで、東西はメソポタミア文明の時代から交易してゐた。


ただし西洋に四書五經の需要があつたとは想へない。それに「自ら瑕(きず)無き者」といふ表現の方が、イイススの言葉「罪無き者」より品があるやうに想るのだが。