よく知られてゐることだが、初期の天皇制は末子相續だつた。記紀が書かれた頃は長子相續が當前になつてゐたから、記紀は兄がゐるのに何故、弟が即位したかの説明に苦勞してゐる。


つまりこれは、戰後の多くの歴史學者が考へたやうに、初期の天皇達は後世の創作ではない、といふ事だ。創作ならば、初から長子相續の物語が作られたらう。


日本の長子相續制は勿論、支那の文化の影響によるものだが、支那にも實は末子相續制が存在した。例へば『左傳』には、「楚國では年少者を大子に選ぶのが定め」(文公元年)といふ言葉がある。


北方の遊牧民も「年少者を大子に選ぶのが定め」だから、チンギス汗(カン)の後は長男のジュチではなく三男のオゴタイ汗が繼いだ。


更に商(殷)の王朝も、長子相續ではなかつた筈である。たしか帝辛(紂王)にも兄がゐた筈だ。だが何時の間にか支那では長子相續が一般化し、日本もその影響を受ける事になる。


安本美典は奈良時代の天皇の平均在位期間を割出し、過去の天皇たちの時代を推定しようとしたが、方法論的に間違つてゐる。奈良時代の天皇は、基本的に長子相續なのだ。


だから安本の推定したやうに天照大神が卑彌呼などといふ事はない。たとへ天照大神が實在したと假定しても、年代的には天照大神は卑彌呼よりもずつと古い。


岡田英弘は支那の王朝の相續に親から子ではなく兄弟の相續が多い點を指摘し、さうした例の殆ど無い日本の初期の天皇制を創作と決めつけた。


これも末子相續といふ習慣を考慮しない愚説である。末子が相續してゐれば、兄弟相續の可能性など殆んどない。


記紀には支那文化の影響が既に見えてゐる。抑、青史編纂といふ事業が支那の文化の影響である。それにも拘らず記紀には、末子相續のやうな古代の日本文化が垣間見えるのである。