日本の古典を讀むでゐると、面白い事に氣づく事がある。例へば、神や鬼は人と對話する時に和歌を詠む。あれは何なのだらう。
基本的に人間とは異世界の存在だから、人間と同樣の言葉は話さない、といふ事なのだらうか。といつても、外國語のやうな言葉では抑(そもそも)對話自體が成立たない。
まあ、それで和歌で韻を踏むで話すといふ事なのだらう。萬葉集の時代なら兔も角、平安時代以降は訓練を受けた貴族しか歌を詠めない。
いつのまにか和歌の技巧といふのが洗練されて、日々の生活に追はれる庶民がさうしたものを躬につける事が出來なくなつた。
さうした和歌を特權階級が獨占してゐるといふ事情も、神が和歌で人間と對話する、といふ思想を産んだ原因だつたのかも知れない。
『伊勢物語』や『土左日記』には、マトモに和歌を詠めない田舎者に對する嫌惡感が色濃く書かれてゐる。當時の貴族たちにとつて、さうした連中は人の仲間とは呼べない存在だつた。
『伊勢物語』では、田舎者の詠む歌は田舎臭く書かれてゐる。『土左日記』などでは、田舎者の作つた下手な歌には誰も返歌をしようとしない。
つまり、上級な人間は上手に和歌を詠むのであり、その延長上に神の和歌だある。神や鬼(靈魂の事)は世俗の言葉では人と對話しないのだ。
それに比べれば聖書の神樣の言葉はかなり俗つぽく想へる。それでも文語譯で讀めば幾らか格調高く聞こえるのだが、口語譯やリビングバイブルではどうしやうもない。
日本の神々は和歌で人と對話する、といふのは、覺えておけば面白い知識かも知れない。
基本的に人間とは異世界の存在だから、人間と同樣の言葉は話さない、といふ事なのだらうか。といつても、外國語のやうな言葉では抑(そもそも)對話自體が成立たない。
まあ、それで和歌で韻を踏むで話すといふ事なのだらう。萬葉集の時代なら兔も角、平安時代以降は訓練を受けた貴族しか歌を詠めない。
いつのまにか和歌の技巧といふのが洗練されて、日々の生活に追はれる庶民がさうしたものを躬につける事が出來なくなつた。
さうした和歌を特權階級が獨占してゐるといふ事情も、神が和歌で人間と對話する、といふ思想を産んだ原因だつたのかも知れない。
『伊勢物語』や『土左日記』には、マトモに和歌を詠めない田舎者に對する嫌惡感が色濃く書かれてゐる。當時の貴族たちにとつて、さうした連中は人の仲間とは呼べない存在だつた。
『伊勢物語』では、田舎者の詠む歌は田舎臭く書かれてゐる。『土左日記』などでは、田舎者の作つた下手な歌には誰も返歌をしようとしない。
つまり、上級な人間は上手に和歌を詠むのであり、その延長上に神の和歌だある。神や鬼(靈魂の事)は世俗の言葉では人と對話しないのだ。
それに比べれば聖書の神樣の言葉はかなり俗つぽく想へる。それでも文語譯で讀めば幾らか格調高く聞こえるのだが、口語譯やリビングバイブルではどうしやうもない。
日本の神々は和歌で人と對話する、といふのは、覺えておけば面白い知識かも知れない。