新約聖書の文語譯は、新敎のヘボン譯や舊教のラゲ譯、正教のニコライ譯などがある。不思議な事にこれらの飜譯(ほんやく)には、文法的な誤(あやまり)が殆んど無い。


これらは明治以降に外國人主導で飜譯されたものである。彼らが日本語をいかに大切に扱つたかが分つて頭が下がる思(おもひ)がする。


といふのも、明治以降の俳句や短歌は僕のやうな高校時代に一年だけ古典の敎育を受けた理系人間でも氣づくやうな初等的な文法的誤に満ちてゐる。


明(あきらか)に言へる事は、俳人達や歌人達は外國の宣敎師達のやうに國語(日本語)を大切に扱はなかつた。だから彼らの俳句や短歌は國語として意味不明なものが多いのである。


大新聞の俳句欄や短歌欄も、プロが擇んでゐる筈なのに國語とは想へない、といふより國文法で解釋不能な歌に満ちてゐる。


これは推測だが、選者達は僕のやうに高校時代に古典の授業を受けた事がないのだらう。さうした人達が傳統文化を僞裝して國文を破壊するのを見るのは、全くもつて不快である。


讀者の皆さんも文語を勉強したいなら文語譯聖書か一葉、鷗外を讀みなさい。間違つても近代の俳句や短歌を讀むだり諳記してはなりません。


それから現代假名遣で俳句や和歌を創らないやうに。あれは文語文を表記できるやうには作られてゐません。