保守派の某政黨の全國大会で、黨の出版物に正假名遣を使ふのはやめて呉れといふ要望が出たさうである。誰もが讀むで分る(現代)假名遣にして欲しい、と言はれたさうだ。


變な話である。現代假名遣は、誰もが讀むで分る假名遣ではない。例へば「出ず」と書かれてゐたら、皆さんはどう讀まれるだらう。


普通は「デズ」と讀むのではないか。だが岩波文庫には「生まれいずる惱み」といふ題名の本が出てゐる。つまり「出ず」は「イズ」らしいのだ。


これが誰もが讀むで分る假名遣だらうか。「イズ」は「出づ」、「デズ」は「出ず」と書く歴史的假名遣の方が、誰もが讀むで分る假名遣ではないのか。


それに「出ず」の活用は「で、で、ず、ず、・・・」なんて感じで「ザ・ダ」行に活用してゐる。「思う」の「ア・ワ」行活用にも驚いたが、「ザ・ダ」行に活用は出鱈目すぎないか。


誰もが讀むで分る假名遣とは、實は歴史的假名遣の方なのである。「いかにいます父母」が現代假名遣では、「います」なのか「ゐます」なのか判斷に困る。


勿論、「います」と「ゐます」では意味が異なる(現代假名遣の「出ず」ほどではないが。「デズ」と「イズ」では意味が眞逆である)


つまり現代假名遣は、現代語を記述する道具としては缺陷品なのである。歴史的假名遣が缺陷の無い完全なものだとは言はないが、現代假名遣よりは大分マシである。


僕が賦録で正字正(歴史的)假名遣を使用してゐるのは、新漢字現代假名遣よりも意味が分りやすくて便利だからである。


僕は政治的にも思想的にも保守派ではない。だから傳統だと言はれても不便なものは使はないのだ。