聖書についての專門書を讀むでゐると、數千種だかの寫本があり、オリヂナルの聖書など誰も復元できない、といふ事に氣づく。


皆さんが讀むでゐる聖書も、色々な學者や團體が、オリヂナルに近いと想はれる文を寄せ集めたものを日本語に飜譯したものだ。


昔は複寫機などないから、全部手書で寫す。人手の作業だから勿論、寫し間違ふ事がある。それどころか、思込みで内容を書換へる奴もゐる。


さうした訣で、聖書學にはオリヂナルを見分ける爲の技術が色々と蓄積されてゐる。日本の古文研究も此のやうな技術を導入したら良いのではないか。


處で本題の古事記の話である。古事記は寫本が少いので聖書學者のやうにオリヂナルの復元に迷ふ事はない。何故、少いかといふと、或る時期まで誰も古事記に興味や関心を持たなかつたからだ。


つまり、興味や関心が無いから書寫す人も殆んどゐなかつた、といふ訣である。古代から古事記が日本人の聖典だつたら、澤山の寫本に専門家たちも辟易してゐただらう。


といつても、現在殘つてゐる古事記が寫本である事も確(たしか)なのである。つまり、オリヂナルと違つてゐる可能性はあるのだ。


御先祖樣の多くが古事記に無關心だつた御蔭で、我々は澤山の寫本からオリヂナルの文を抽出する、といふ作業から解放されてゐる。


それでも寫間違はありさうだが、寫本の數が少いので比較によるオリヂナルの抽出といふ事も出來ない。


もつとも戰後の古代學者は古事記や日本書紀を餘り重視してゐない。SFもどきのトンデモ學説が記紀を無視して主張される。


専門家は地道な作業によるオリヂナルの復元などに興味はないのかも知れない。