或る會合で、支那とも朝鮮とも異質な日本の文化は何處から來たのだらう、といふ話になつた。それは、日本固有の風土が齎したものではないか、といふ意見で落著さうになつた。


實は僕は、文化に對する風土の影響といふものを重要な要素とは見做してゐない。勿論、暑い地方では薄著をするだらうが、風土の影響とはその程度のものである。


だいたい日本の風土は多樣であり乍ら、それでも統一的な日本文化といふものが觀察可能である。日本の文化を森の文化といふ人もゐるが、金屬器の時代が始まるまでは世界中が緑に溢れてゐた。


鳥獸や蟲の聲を日本人や一部のポリネシヤンは左腦で處理するが、かうした事を風土で説明出來るのだらうか。


ポリネシヤと日本の風土は異るだけでなく、ポリネシヤのやうな熱帶は世界中に存在する。しかし熱帶に住む土人の多くは鳥獸や蟲の聲を右腦で處理するのである。


日本のこの奇妙な文化は、ポリネシヤンが日本に移住して日本文化の基層を作つたと考へるのが自然ではないのか。つまり日本の風土の影響など受けてゐないのである。


天皇と將軍といふ二元政治の文化も、北歐羅亞細亞や南洋では珍しくもない。日本の風土によつて生まれた政治文化とは到底想へない。


ルース・ベネディクトによれば、敬語が組込まれた言語は太平洋の諸民族に一般的なものだ、といふ。


かつては敬語を封建制度の影響のやうに主張する人達がゐたが、封建制度など経験した事もない土人たちも敬語を使用する。敬語が封建的だといふ主張自體が今日ではギャグである。


同じやうに、神話を其の國の歴史の反映と考へるのも馬鹿げた發想である。例へば、天照大御神の神話はローカライズはされてゐるが、歐羅巴にも似た話がある。


似たやうな神話の分布を見れば、多少數學的な素養があれば日本神話が其の震源地とは想はない筈だ。つまり古代日本史を反映して日本神話が出來た訣ではない。


特に天照大御神の神話の骨骼は日本で出來たものではない。だから天照大御神を卑彌呼に比定したりする學説は、神話といふものの本質を理解してゐない愚説である。


まとめ。諸民族の文化の重要な部分は風土によるものではないし、たいていの場合、神話は其の民族の歴史を反映してゐない。


いまでは地球上の多くの民が、自分たちの祖先はアダムとエワだと想つてゐる。猶太教や基利斯督教が世界中に拡散したからである。


だが神話の性質として、アダムとエワとが猶太起源の神話かどうかさへ怪しいものである。ました異民族の先祖と關係ある訣がない。