漢字假名混文は便利な表記方法である。明治以來、假名だけ表記や羅馬字表記を主張する人は絶えないが、實現する事はないだらう。


なぜなら大和言葉だけで現代の國語を表現する事は出來ないし、漢語を假名で書いたりしても分難いだけである。


「水素」は水の素となる原子だと字を見ただけで分るが、「すいそ」では何が何だか分るまい。かういふ意味不明の言葉の丸諳記を強いるのは、苦痛だし效率も惡い。


ただし、國語表記に漢字を使用する弊害も無いではない。例へば植物の「芽」と「花」、「葉」などは顔の「目」と「鼻」、「齒」と關係がある言葉なのではないか。


かうした關係は、漢字で表記してしまふと分らなくなる。どうしてかういふ事が起きるかといふと、日本語と支那語とは異質な體系の言葉だからである。


漢字は元々、支那語を表記するために作られたのだから、日本語の都合に配慮しては呉れない。それは矢張、仕方がない事なのだらう。


それに多分、假名だけ表記はかうした問題を解決ではない。「日」と「火」、「神」と「上」は同系統の言葉に見えるが、平安時代には發音の異る別の言葉だつたらしい。


だからといつて現代の國語の假名表記に甲類と乙類を區別する假名を増やしても煩はしいだけだらう。字引も引きにくいし。


まあ、假名混文は優れた國語の表記方法だが萬能ではない、といふ事なのだらう。人の作つたものに完全を求めるのが間違なのかも知れない。