1%のインスピレーションと99%の努力といふエヂソンり言葉は、皆樣御存知だらう。これは、1%のインスピレーションが無ければ99%の努力など無意味、といふ意味で使はれた。


だか大體、日本人は此の言葉を99%の努力が1%のインスピレーションを支へてゐる、と解してゐる。英語圈の人間と日本人とは、言葉の處理といふか文化が違ふのである。


二人の人の意見が平行線だ、と言へば、日本人なら妥協の餘地が無いと解釋する。英語でパラレルと言へば、同じ方向に進むでゐる同盟關係と見做されるだらう。


「個人主義者」と聞けば、多くの日本人は自分勝手な奴と解釋する。これも英語圈の人間は受取方が違ふ。「責任感の強い人」といふ印象を受けるのだ。


英語圈の人間に連帯責任なんて概念は無い。全體の責任なんて無責任に決つてゐる。出來る事は部分の責任を負ふ事だけだ。テイク・ア・パアトとか、英語では言ふ。


だから英語では「個人主義者」と聞くと、自分の責任を引受る覺語を有(も)つ人といつた解釋をされるのだ。日本人のやうに、責任を回避する爲に使ふ言葉ではない。


このやうに、言語が異なれば似たやうな言葉でも用法が異るのは當前の事だ。つまり外國人は解剖學的には同じ人間かもしれないが、情報處理といふか文化は異るのである。


それでは他國の文化を皆、理解し合ふやう努力すべきか。それは不可能だらう。世界には数百の言葉があり、そんな多數の異文化を理解するなどとうてい不可能だ。


それでも自分の國の言語や文化を外國人に説明する努力くらゐは必要かも知れない。それには自國語や自國文化を言語化する努力が必要なのである。