ベルジャーエフの『ドストエフスキーの人間觀』といふ本を最近、讀むでゐて、意外な事にドストエフスキーと僕の「罪と罰」についての考へ方が似てゐる事に氣づいた。


惡は善の少い状態ではなく、惡として自立して存在する。そして人は自由意志によつて善だけでなく惡をも選擇する事ができる。但し、惡を選択した者は、その責(せめ)を負はねばならない。


罰を輕くする、といふのは、自由選擇によつて生じた責任を放棄して良い、といふ事である。つまり、犯罪者を禁治産者(最近は用語が變つたらしい)扱(あつかひ)してゐるのだ。


我々は犯罪者を隔離するだけでなく、罰しなければならない。さうしなければ、犯罪者が責任をとる機會すら奪つてしまふ。


犯罪者の人間としての尊嚴を守る爲には、死刑も必要な警拔である。目には目を、齒には齒を。これこそが刑法の本來あるべき姿なのである。