「主席」といふ言葉を、皆樣は聞いたことがあるだらう。「毛澤東主席」とか、「毛語録」も正確には「毛主席語録」である。


では「主席」とは何ういふ意味の言葉か。共産黨の偉い人を指す言葉、間違ではないが正確でもない。「主席」とは、「chairman」の支那語譯なのである。國語では「議長」と云ふ。


最近の英語では「chairman」ではなく「chairperson」と言ふさうだ。「manhole}も何時の間にか「personhole」になつた。


だが、「主席」や「議長」と云ふ譯語は、「chairman」の飜譯語として作られた。それにも拘らずどちらにも「男」や「人」と云ふ言葉が無いのは不思議である。


「主席」といふ言葉はむしろ、アウグスツスの頃の羅馬皇帝などに相應しい言葉ではないだらうか。議會で最初に發言する事を許された者の事である。


僕は日本人なので、「議長」と云ふ譯語の方が分りやすい。英語の支那語譯は、日本人には意味が分りにくいものが多い。


たとへば聖書に出て來る「福音」、日本語の聖書でも使はれてゐるが、意味を理解してゐる人は稀だらう。山本七平はこれを「朗報」と譯した。此の譯なら、僕達日本人にも理解できる。


僕の専門である數學にも「幾何」や「函數」といふ支那人の譯した言葉がある。これまた字を見ても意味が分らん。


「幾」は支那語では「ジオ」と發音するさうで、要するに「幾何」は「geometry」の音寫なのである。字を幾ら眺めても意味が分る訣がない。


「函數」も同樣で、「函」は支那語で「ファン」と發音する。「ハコの數ではありませんよ」と僕の函數論の師・倉持善次郎教授が大學で講義してゐた。


數學科の學生には有名な「チャイニーズ・リメンダー・セオレム」は「孫子剩餘定理」と譯される。どの「孫子」なのかは知らないが、多分『九章算術』の孫子だらう。


「主席」や「福音」のやうに、能く意味を知らずに日本人が使つてゐる支那製の漢語は決して少くない。漢字で書かれてゐると、何となく分つた氣になつてしまふのである。