『チョーヤク』や『ちはやふる』などの動畫の御蔭で、最近は『百人一首』に興味を持つ人が増えてゐるらしい。しかし、この『百人一首』は、色々と問題のある歌集なのである。


まづ、選ばれてゐる歌が難しい歌ばかりだ。解説書でも讀まないかぎり、歌意が理解できない歌が殆んどだ。そして此の解説書も色々と問題があるのである。


平安初期の歌と末期の歌では文字媒體が異るため、文書作法が異る。意味を理解する方法も違つて來る。そして藤原定家のやうな平安末期の歌人は其の事を全く理解してゐない。


文字媒體の違ひによる文書作法の相違は、西紀二十世紀の後半に専門家によつて指摘されるやうになつた。これはとても重要な問題である。


つまり、「古今傳授」などは平安初期の文書作法が忘れられてから出來たものなので、平安初期の歌を全く理解出來てゐない。


それどころか古今和歌集や百人一首の最近の解説も、かうした文獻學の成果を十分に取入れてゐない。つまり、専門家でも意味が分らないか意味を誤解してゐる者が多いのである。


さうした意味の誤解に、加留多とりが拍車をかけてゐる。どの歌も五、七五、七七のリズムで讀むので、本來の歌の區切が無視されるのである。


數年前に齋藤孝なる人物が古典の詠唱を奬める本を出したが、其の本に載せてゐる古典の事例が詠唱には向かないものが多かつため、専門家の物笑ひになつた事がある。


特に平安初期の古今和歌集に載つてゐる歌は、文字を見て時間をかけて意味を理解しなければならないものが多い。それは假名文の性質によるものらしいのである。


萬葉集は萬葉集で、意味を解するためには民俗學や古代呪術等の知識が必要になる。詳しく知りたければ白川静の『初期萬葉論』や『後期萬葉論』を御覽あれ。


實は今年になつて和歌の勉強を始めたのだが、媒體や風俗に依る意味解釋の問題點ばかりが見えて來て、少しばかり途方にくれてゐる。


勿論、そんな問題には氣づかず千年前の解釋を蹈襲してゐる幸せな専門家も數多くゐるらしい。大學の文學部とは住みやすさうな世界である。