『兵器と戰術の日本史』といふ本によると、源義經の戰術は、當時としては特異なものだつたらしい。當時はスポオツのやうに、(特に騎馬武者の)戰爭のルールが守られてゐた。


矢を打ち合ふにも最初は鏑矢とか色々と決りがあり、騎馬武者は名を名乘つてから立ち合つた。本當に、戰爭といふよりはスポオツか樣式化された古典藝能である。


義經の戰術はだいたい少數による奇襲で、目立つのは義經ばかりである。これでは從軍してゐる鎌倉武者は見せ場が無い(つまり恩賞を貰へない)


つまり、義經は檢非違使の位を受ける以前から、鎌倉武者の間で人氣が無かつたのである。ただし、當時の戰闘の規則を無視して戰つたので勝率は高かつた。


『兵器と戰術の日本史』では、義經はかうした戰術を奥州藤原氏の元で覺えたのだらう、といふ。ありさうな話である。義經が坂東で專修つを覺えたのなら、あんな戰ひ方はしない。


義經死後、かうした戰爭をする者はゐなくなつた。鎌倉幕府末期までは。楠木正成や赤松圓心が、義經流のルウル無視、勝てば良いといふ戰爭を復活させた。


楠木正成も赤松圓心も、出自は惡黨であつて眞(まとも)な武士ではない。後世では戰果が評價されて、特に楠木正成の人氣は高まつたが、當時のまともな武士には顰蹙を買つてゐたのではないか。


楠木正成も赤松圓心も、建武の新政權では碌な扱ひを受けてゐない。朝廷の貴族には、武士より得體の知れない連中と想はれてゐたのだらう。