古代の聖帝・堯が天下治めてゐた時、その國號は「唐」といつた。帝堯は舜に位を平和的に讓つた。これを「禪讓」といふ。


帝舜も禹に禪讓した。帝舜の國號を「虞(ぐ)」といふ。そして禹王の國を「夏(か)」といふ。禹王も禪讓しようとしたが、臣下たちは禹王の子を慕ひ夏王朝が成立した。


商の桀王は無道の君主で湯王に武力で倒された。これを「放伐」といふ。湯王の建てた國を「商」といふ。この王朝は殷墟などで實在した事が證明されてゐる。


商王朝は帝辛(俗に謂ふ紂王)のときに武王に放伐された。武王の王朝が「周」である。支那の王朝のなかでは最長のものだが、後期は力を失つて春秋時代と呼ばれてゐる混乱が續いた。


現代の歴史の教科書では、商(殷)かせいぜい夏までしか出て來ない。しかし「唐」「虞」を知らなければ江戸時代の思想家の著作の多くは理解できない。


道教の發達とともに、堯舜の前にも皇帝や炎帝(神農と言つた方が通りが良いかも知れない)などがゐたといふ歴史が作られた。ほかに顓頊(せんぎよく)、帝嚳(ていこく)などがゐる。


支那人はよく歴史や神話を創作する。戦後の日本では、日本の古代史や神話も大和朝廷の創作である、といふ説を唱へる学者たちがゐたが、今日では否定されつつある。


日本の神話には似たやうな話が歐羅巴や南方にもあるし、日本で作られて世界に擴散したと考へるのは妄想だらう。日本の歴史を反映して作られた話でもある筈がない。


それに古代史が大和朝廷の創作なら、天皇は最初から長子相續の話になつた筈である。むしろ記紀は古代の天皇が末子相續だつた事の理由づけに苦慮してゐる。


閑話休題、『論語』には堯舜は出て來ても黄帝などは出て來ない。そして驚いた事に堯舜の禪讓の話も出て來ない。つまり、この頃は「禪讓」の神話は無かつたのだ。


とすると、歴史上はじめて禪讓を行つた皇帝は後漢の獻帝といふ事になる。それ以降の五胡十六國の時代は[禪讓」のオンパレイドになる。


實は僕は「夏」といふ古代國家も存在しなかつたと想つてゐる。夏の遺跡はまだ見つかつてゐないし、あれは政治的な都合から周が創作した國ではないのか。


商は帝(てい)と呼ばれる神の子孫のみが王となれる國だつた。それを放伐して周を建國した西戎たちには、王位につく理論的な正當性が無い。


だから彼らは[天]といふ概念を發明し、天命が替つたので王が替つたと主張した。所謂「易姓革命」の理論である。商の「子姓」は周の「姫姓」に易(かは)つた。


最近の説では、商の時代の王たちには「姓」が無かつたといふ。「子」とは、周の時代に作られた姓で、商の王樣は天皇家のやうに無姓だつたらしい。


そして周の時代には、國名は「商」ではなく「殷」と書換へられ、「帝辛」は「紂王」と呼ばれるやうになつた。周王朝は大規模に歴史を改竄してゐる。


「夏」といふ國も、「放伐」をしたのは周だけではないといふ言ひ訣のために作られた歴史ではないのか。商に姓が無かつたのなら、帝堯の「陶唐氏」も帝舜の「有虞氏」も捏ち上げである。


後漢の禪讓は、かうした創作を歴史と信じた人達によつて行はれ、魏の文帝(曹丕)が即位した。日本にも道鏡に禪讓しようとされた女帝がゐた。


日本の學者たちが記紀の神話や古代史を創作と考へたのも無理はないのかも知れない。少なくとも隣の國の古代史は、殆んどが人爲的な創作なのだから。