希臘正教の神學の本に、最近はまつてゐる。「エネルゲイア」や「ウーシア」などといふ專門用語を覺えるのが、わりとウザい。
僕は學生時代は數學を專攻してゐたのだが、僕の學問の目的は昔から世界認識である。若い頃は數學を理解するのがその早道と想つてゐた。
今もその考へは變らない。數學の素養の無ささうな思想家と聞くと、何となく眉に唾をつけてしまふ。信用できないのだ。數學の素養の無い人間が無限のやうな概念を本當に扱へるのか?
小室直樹といふ京大の數學科を出た社會科學者が、昔面白い事を書いてゐた。全ての民族が算術を持つが、所謂數學を持つ文化は猶太・基督教文化だけなのだといふ。
例へば猶太教の食物既定は、近代の集合論そのものだ。人が食べて良い物といけない物が事細かに既定されてゐる。發想が集合論なのである。
希臘の古典『言論』は、公理を定めて定理を導くといふ今日の現代數學でおなじみのスタイルで書かれてゐる。ただ、「公理」といふ言葉の意味は、當時と現代とでは丸で違ふ。
昔の「公理」とは、説明のいらない絶對の眞理だつた。非ユウクリツド幾何學の登場で、その意味がぐらついた。相反する命題が公理として機能する事が分つてからである。
現代數學では、「公理」とはただの假定命題である。甲を假定すれば乙が言へる。假定が異なれば結論も異なる。これでは絶對の眞理とは言へないだらう。
僕はだんだんと、數學や科學を産むだ文明や文化に興味を持つやうになつた。基督教や猶太教と對比するために、佛教史や神道なども勉強した。
簡單に言へば宗教からは數學や科學が産まれたが、他の文明からは算術のやうなテクノロジイしか産まれない。神道などは神學が無いから、科學や數學の出て來る餘地がない。
それに神道は宗教ではない。ただの日本人の慣習である。それだから水準が低いと言ひたい訣ではない。ただ、そこからはせいぜい呪術しか産まれない。科學は宗教や神學の産物なのである。
特に數學を産むだ文化を理解したい。そんな事を考へながら、この賦録は數學や科學、技術、宗教などを「情報處理」といふ觀點から考察してゐるのである。
この賦録の目的は世界を理解する事である。
僕は學生時代は數學を專攻してゐたのだが、僕の學問の目的は昔から世界認識である。若い頃は數學を理解するのがその早道と想つてゐた。
今もその考へは變らない。數學の素養の無ささうな思想家と聞くと、何となく眉に唾をつけてしまふ。信用できないのだ。數學の素養の無い人間が無限のやうな概念を本當に扱へるのか?
小室直樹といふ京大の數學科を出た社會科學者が、昔面白い事を書いてゐた。全ての民族が算術を持つが、所謂數學を持つ文化は猶太・基督教文化だけなのだといふ。
例へば猶太教の食物既定は、近代の集合論そのものだ。人が食べて良い物といけない物が事細かに既定されてゐる。發想が集合論なのである。
希臘の古典『言論』は、公理を定めて定理を導くといふ今日の現代數學でおなじみのスタイルで書かれてゐる。ただ、「公理」といふ言葉の意味は、當時と現代とでは丸で違ふ。
昔の「公理」とは、説明のいらない絶對の眞理だつた。非ユウクリツド幾何學の登場で、その意味がぐらついた。相反する命題が公理として機能する事が分つてからである。
現代數學では、「公理」とはただの假定命題である。甲を假定すれば乙が言へる。假定が異なれば結論も異なる。これでは絶對の眞理とは言へないだらう。
僕はだんだんと、數學や科學を産むだ文明や文化に興味を持つやうになつた。基督教や猶太教と對比するために、佛教史や神道なども勉強した。
簡單に言へば宗教からは數學や科學が産まれたが、他の文明からは算術のやうなテクノロジイしか産まれない。神道などは神學が無いから、科學や數學の出て來る餘地がない。
それに神道は宗教ではない。ただの日本人の慣習である。それだから水準が低いと言ひたい訣ではない。ただ、そこからはせいぜい呪術しか産まれない。科學は宗教や神學の産物なのである。
特に數學を産むだ文化を理解したい。そんな事を考へながら、この賦録は數學や科學、技術、宗教などを「情報處理」といふ觀點から考察してゐるのである。
この賦録の目的は世界を理解する事である。