佛教の地獄は、最近は誤解してゐる人も多いのだが有限刑である。零を發見したといはれる印度人は、無限や永遠といふ概念を持たなかつた。だから佛典には永遠といふ概念が無い。


天文學的に大きな數は出て來るのだが、基督教のやうに永遠の業火で燒かれたりはしない。むしろ、永遠といふ概念が現れる基督教が異常なのである。


基督教にも地獄は有限刑で、最終的には全ての人や惡魔ですら救はれる、といふ考へ方が存在した。初期には輪廻転生といふ概念もあつた。だが此等の考へは皆、異端と認定された。


基督教はどうやつて永遠といふ概念を獲得したのだらう。この時代の無限の概念は皆、可能性としての無限にすぎないが、二十世紀にはカントオルによつて實無限といふ概念が生まれた。


これによつて無限には色々な水準が存在する事となつた。現在の宗教で實無限を取込むだものは無いと想ふが、ゲエデルは神と實無限の存在を信じてゐた。


現在のところ、實無限はイデアの世界にしか存在しないやうに想へる。實世界は有限な情報系で、實無限の存在を示唆する事象は觀測されてゐない。


ただし、實無限の概念は數學では頻繁に使はれてゐて、實世界の近似値を與へて呉れる。どういふ事かを簡單に説明する。


例へば水の容量は連続量(連續無限)として扱はれてゐる。實際には有限個の分子の集りに過ぎないのだが、マクロの世界でそのやうに扱ふ事は稀だ。


存在しない筈の實無限が、實世界の模型として有效なのはどうしてなのだらう。量子力學の理論を延長しても實世界の規模の運動を記述する事は出來ない。


天體の運動のやうな計算では、いまだにニユウトン力學やアインシユタインの相対性理論の方が予測には有效なのである。


現在では光速より速く移動する粒子の存在などが發見され、アインシユタインの相対性理論が綻びつつある事も確かなのだが。