「生き樣」といふ言葉か嫌ひである。元來、國語には、「ぶざま」、「死に樣」といふ言葉はあつても「生き樣」といふ言葉は無い。失禮だからである。


最初に「生き樣」なんて言葉を使用した人は、多分自分の人生を卑下して、謙遜の意味で用ゐたのだと想ふ。最近の「生き樣」といふ言葉の使はれ方は、他人の人生を平氣で「ザマ」呼ばはりするのだから驚く。


誰か「無禮者」と怒つて騒ぎ出してくれないだらうか。「僕の人生はくだらないかも知れないが、何でこんな奴に生き樣呼ばはりされなきやいけないんだ」てな具合に。


最近の年寄は若者に寛大すぎる。かうした事で怒らなければ、今後も他人の人生を平氣で「生き樣」呼ばはりする馬鹿者や無禮者が絶える事はないだらう。


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