日本が仏教を導入しようとしたとき、蘇我氏と物部氏の争いが起きた。蘇我馬子は、外国で流行っている神様なので日本にも導入しましょう、みたいな発言をしている。
蘇我馬子にとって、仏様とは蕃神(あだしかみ、外国の神様の事)の一つに過ぎなかった。決して仏教の理論を理解して導入しようとしていたわけではない。
その後、日本にも仏教が広まりだし、日本の仏教徒は仏教の普及のため本地垂迹説という奇妙な説を作った。インドの神様と日本の神様は同じだ、と云う主張である。
例えば、インドの大黒天(仏典の天は神様の事)が日本では大国主の神となって現れた、と主張した。
大国主(おおくにぬし)が音読みで「だいこくしゅ」だからと云う只の語呂合せなのだが、取敢ずこの古いおやじギャグは無視して先に進めよう。
何故、本地垂迹説という奇説が現れたか、という事である。普通の日本の庶民に仏教を説明するには、こうするよりなかったのだ。
外国の宗教を日本の言葉で説明しようとする。そうすると、日本にある宗教用語は神道のものだけだ。だから異質なものを無理に自分たちの語彙で説明しようとすると、大黒天は大国主となってしまう。
これはキリスト教の布教でも起きていて、大日誤訳事件というのがある。「キリスト教の神」を「大日如来」と翻訳した事件だ。
キリスト教の「神」は世界を創造した唯一の神で、こうした概念を表す言葉は日本語には無い。「神」と云う訳も、厳密には誤訳である。
「キリスト教の神」には、ほかに「天主」と云う訳がある。これは名訳だと想う。キリスト教の事を「天主教」と言ったりする。
日本人の宗教理解とは、こういうものである。「唯一神」も「仏(悟を開いた人)」も、沢山いる神々の中の一柱にすぎない(「一柱」については、前の記事「神の数え方」を見て下さい)
そして日本人に限らず、異文化の理解(情報処理)とは、こういうものではないか。自分たちの文化の中に無い概念を自分たちの言葉で表現しようとすれば、誤訳や誤解は必然なのである。

