そこでだ、広く意見を求めることにした。いままで、形のうえでは、敬っていたが、実際はいいなりにさせていた朝廷なんかにことの次第を報告したり、これまで、無視していたような外様の大名に意見を聞いたりしたわけだ。どうすればいいと聞かれて、誰ものらりくらりだ。何もはっきり答えはしない。責任をおっかぶされるからな。君達は良くわからんだろうが日本の会社の会議みたいなもんだ。学級委員会も似たようなもんかな。しかしだ、大抵何時の時代もそうだが、世の中に干されているような輩のなかに、以外に能力のある輩がいる。冷遇されているよう人間は、誰も助けてはくれないし、しっかりしてしまうことが多いんだ。艱難汝を玉にすなどという諺もあるだろう。例えば、薩摩(鹿児島)の島津斉彬や土佐(高知県)の山内豊信なんかがそうだった。彼等は、江戸から遠く離れ、幕府から発言する機会すらあたられず、冷遇されていた外様の大名だった。こういう有能な人間がここに来て幕府に対して発言する機会を得たわけだ。そして、いろいろ幕府にあたりさわりないように提言していく。そんななかで、彼等は偉そうにしている幕府が実は無能であることを知っていくわだ。今の日本でもよくあるな、偉そうにしている政治家も話して見たらたんなるアホなおっさんだったなんてのは聞いたことないかな。人間な本当に力のあるものは自分を偉そうに見せたりせん。偉そうにするのは力のない者だ、力のないのがばれてしまうからな。江戸幕府を開いた徳川家康は有能だったのかもしれんが、今の幕府はみんな偉そうにしてるだけで中身はからっぽということが、わかってしまったわけだ。この薩摩や土佐なんかの人間はいずれ、こんな幕府は潰して、あたらしい政府を作っていこうと思うようになって、明治維新の原動力になっていくわけで、ペリーの来航は、明治と言う時代の幕開けのきっかけみたいな出来事ということになるんだ。
 とにかく、また来年来てくれとペリーに言って帰ってもらった。そして、幕府はどうしたか。当然、ここは幕府としては毅然と判断をせねばならなかったわけだが、そんな力はなかったのだ。なんのかんの言って、300年以上鎖国を続け、平和を保っていた幕府には、こんな事件に対応する力はなくなっていたわけだ。どっかの金持ちの息子が苦労知らずでどうしようもなくだらしなくて、親父が作った会社をぶっつぶしてしまうのと同じで、幕府のなかには平和な江戸時代の中、人材が不足するようになっていたわけだ。なんのかんの言って、鎖国を続け、平和であった江戸幕府は何かする能力がなかったわけだ。平和ぼけ日本と今もよく言われるが、この頃もそうだったわけだな。
  2 ペリー来航
 では、そもそも何でペリーは日本になんかやってきたのだろうか。観光で来たんじゃないぞ。用があってきたのだ。実はこの頃、アメリカは資本主義社会にもうなっていて、どんどん発展していた。1で少し言ったが、お金持ち(今後は資本家と呼ぼう)が楽できるのは貧乏人(今後は労働者と呼ぼう)をこき使う(マルクスはこれを搾取すると呼んだから、今後は搾取と呼ぼう)からである。搾取する労働者(こき使える労働者のことだね)がたくさんいた方が資本家はますますお金持ちになって楽できるのはみんなもなんとなくわかるだろう。アメリカは世界でも割に早く資本主義になっていたので、この資本主義の論理を良く知っていた。要するに、アメリカという国としては、どっかに貧乏な国を作り出して搾取することによってもっともっと楽をしたいと思っていたのだ。えっ、自由の国アメリカがそんないやしい考えを持つなんてと君達が思ったら残念ながら甘いなとしか言うしかない。国家なんて実はえげつないものなんだよ。自分たちの国さえよけりゃあ人の国のことはどうでもいいって考えることもしょっちゅうあるんだよ。もちろん、アメリカの国のなかにも資本家・労働者がいていろいろあるのは当然だけど、アメリカという国の単位でいうとやはり資本家になってぼろ儲けをしようとするのだ。そして、アメリカが搾取する相手として狙っていたのが中国だったのだ。ところが、アメリカから中国に行くにも当時の汽船では息切れしてしまうので、日本で一息つきたかったわけだ。そこで、当時、鎖国していた日本に開国しろって迫ってきたわけだ。まあ、自分勝手なことだ。
 これに対して江戸幕府はどうしたかというとだ、とにかく1年待ってくれとしかいえなかったわけだ。相手は凄むし、すごい武器も持っている、仕方ないわな