去年の今頃は北海道にいた。

 

12年ぶりの北海道。

 

すっかり変わってしまったものもあれば、

 

ほとんど変わっていなかったものもあった。

 

ほとんど変わっていなくてほっとしたのは、

 

20年ほど会っていなかった友人たち。

 

小学校の同級生、中学校の同級生、高校の同級生、

 

10年、20年、中には30年近くも時間が経ったのに

 

会えば昔のまま。

 

それが本当に嬉しかった。

 

 

そして、会えると思っていなかった人たちとも

 

再会できて、奇跡のような一週間だった。

 

 

あれから一年も経ったなんて本当に信じられない。

 

まだ昨日の出来事のように思えるのに。

 

去年の今日、夢のような再会ができて、

 

その想い出は心に深く刻まれた。

 

人生の中でずっと忘れられない一コマとなるだろう。

 

 

『歩いてたどり着けないところは目(視線)で追ってたどり着けることができる。目で追ってたどり着けないところは気持ちでたどり着ける』雨果 「悲惨世界」より

 

自分の人生の中に会いたいのに、行きたいのに、歩いても目で追おってもたどり着けない場所(人たち)がいる...そのかわり、気持ちがたどりついている。それでいいのかもしれない...

今すぐにでも飛んでいきたい。

そう思うのにできないことがある。

ならば、気持ちが飛んでいけばいい。

 

一ヶ月ほど前、こんなことをfbに書いた。

 

一ヶ月後の今日、やはり同じ気持ちである。

ちょっと記録に残しておきたい気持ちでした。

 

 

週末、主人が教会の「メンズ研修会」に参加してきた。

 

先月ブログでも書いた、家から一時間半くらい北にあるクリスチャン研修センターでの研修。

 

その研修から帰ってきて早々、見せたいものがある!と言われた。

 

これこれ、見て!と突き出されたのは、主人が撮ったビデオクリップだった。

 

 

写っているのは、今ではおなじみの研修センターのカフェテリア。

 

でも、いつもあるカフェテリアの光景:「楽しく会話を弾ませながら、食事を取る研修者たち」は一人もいなく、

 

聴こえてくるのは、おなじみの讃美歌。

 

目に入ってきたのは、声を一つにして、神を誉め称える人でいっぱいのカフェテリア。

 

ギターを弾き、サックスを吹き、声を合わせて歌う教会のメンズたち、その向こうには、

 

ちょうど研修センターに泊まっていたある黒人の教会グループ。

 

そして、あっちこっちにキッチンスタッフとセンターのスタッフたちが立っている。

 

みんな声を揃えて、神を誉め称えている。

 

さすが黒人の教会だけあって、讃美歌のレベルが高い!

 

所々ではもりが聴こえてくる。

 

あぁ、これがプレビューなんだな。そう思った。

 

天国のプレビュー。

 

知らない人でも、イエスを敬い、愛い親しむ心があるならば、

 

心が一つになるのは一瞬のことだ。

 

 

研修センター史上初の出来事だったらしく、誰もがびっくりしたらしい。

 

研修センターなのだから、讃美歌を歌い、神を誉め称える人は毎日沢山いるが、

 

カフェテリアで、いきなり讃美が始まったのは、初めてとのこと。

 

いつもはセンターで奉仕しているため、教会に出席できないことが多いセンターのスタッフも

 

この機会を逃すまいとカフェテリアに顔を出した。

 

「心からの笑顔」が一目瞭然だったそう。

 

 

とても貴重な体験ができて、主人は帰って来てからもしばらくは興奮状態で

 

その時の様子を語ってくれた。

 

すべては、いつも「何か、だれかのために何かしよう!」と心がける牧師さんのおかげ。

 

突拍子もないアイデアも多いけど、こんな風に人の心を温かくしてくれることばかり。

 

人種、年齢、社会的地位、男女など、なんの妨げにもならない。

 

神を心から誉め称える人たちならば、声を一つにした瞬間、心が繋がる。

 

だから、お互いのことを「姉妹」や「兄弟」と呼ぶ。

 

神を天の父に持つ、大家族の一員なのだから。

 

 

主人から見せられたビデオクリップを見ながら、

 

いつかは訪れる天国での讃美を想像してみた。

 

思わず笑顔になり、温かい液体が目にちょっと溜まってきたのに気づいた。

 

 

ビデオはYoutubeにシェアしてないので、神を讃美する声をここでシェアできないのが残念だけど...

 

 


から見える樹々も、車を走らせる最中に飛び込んでくる景色も

秋の色に染められる今日この頃。

神様が空から絵の具をこぼして色づけたかのように美しい世界。


明らかに夏は過ぎ去り、こっそり足を忍ばせて、冬はすぐそこまで来ているのが、

空気からも、体からも感じられるので、実は秋はあまり好きではない。

と同時に、見ているだけで慰めとなるこの美しい景色に感嘆せずにはいられない。

神さまは、なんて素敵なアーティストなんだろう。


綺麗な紅葉もだいぶ散リ落ちているので、

夏の服をしまうのは、やっぱり残念でならない思いだけれど、

ついに先週末、衣替えをした。



しまっていた冬服の中から、次々と出てくる母の服からは未だに母の匂いがする。

母が亡くなり、私たち姉妹は、まだ着られる(中には新品同様のものもある)

年相応の服をもらってきた。

母はどのように保管していたか分らないけど、

母の服は石けんの匂いに似たとてもいい匂いがする。


一枚一枚取り上げた服に顔を伏せて、スーッと深く息を吸うと、

匂いとともに、母の姿が脳裏に浮かんでくる。

「いったいどうやったら、こんなにいい匂いがするんだろう。」

「箪笥の引き出しに石けんでも入れてたのかなぁ。」

とか考えていると、

もうそのコツを聞くこともできなくなったということに改めて気づき、

母が恋しくなる。


できれば、洗濯などしたくない。

もらってきた夏服は、洗濯する度に心が痛んだが、

幸い、未だにまだ母の匂いがかすかに残っている。

でも、そのうち、母の匂いは、私たちが使う洗剤の匂いに変わっちゃうんだろうな。

と思ったら、すごく淋しくなった。


去年の今頃、母に会いに行ったことも思い起こされた。


私たちの記憶は、五感とともにファイルされ、保存される。

特定な音楽を聴くと、その時、その時の気持ちが蘇ってきて、

想い出の中に引き戻されるように。


いずれ、もらってきた母の服から母の匂いは消えてしまうだろう。

でも、いつかまたその匂いと出会うことがあれば、

その時、私は母との想い出の世界に引き戻されるだろう。


思わず、「五感を造ってくれてありがとう、神様」と心の中でつぶやいた。




年もサンクスギビングが来て、そして去っていった。

アメリカよりも一ヶ月半ほど早いサンクスギビング。

今年はあっと言う間にやって来た感じで、全く実感がなかっただけではなく、

「やる気」も全然なかった...


毎年恒例、義妹がホストする夫の親戚達との持ち寄りサンクスギビングディナーも、

料理に精を出す気にもなれず、恥ずかしながら、簡単なミートボールを持参しただけで、

七面鳥、その他たくさんのごちそうを堪能してきちゃったわけです。

いつかは、七面鳥ディナーを自分でも美味しく焼けるようになりたい!と思いつつ十数年。

今年のクリスマスこそは!と反省中。


それはさておき、この週末を振り返ってみると、なんだか鍛えられた気が。

というのも、毎年サンクスギビングの時期になると、いつもよりも、

感謝の心を持つように意識するわけだけど、

今週末は感謝の心を邪魔されるようなことが結構あったような...



大きなハプニングがあったわけでもなく、けんかしたり、特に何かあったわけではないのに、

毎日あるような、小さな「イラッ」とするようなモメントが

次から次と押し寄せてきたのを感じた。



いつもなら「バックグラウンドミュージック化」してしまった日常の雑音。

例えば、14歳の長男が、言うことを聞かない6歳の弟をイライラしながら注意する声。

外に見える何かに向かって吠える小犬達のうるさいハイピッチなトーン。

言うことを聞かない末っ子に「言うことを聞かないので、今日はゲームで遊べない」

という判決を下す夫。


これら全部が重なると、さすがにこのママの頭に「角」が出かかり始める...


「うるさ〜い!!!!!」


心の中でそう叫びながら、深呼吸をし、

と同時に「サタンの罠にはまるもんか!」と自分に言い聞かせる。



どうやら、サタンのカレンダーに「サンクスギビング ホリデー」はないようだ。

むしろ、この時期はサタンが一番よく働く時期なのかもしれない。

大したことをしなくてもいい。小さなことをここで少し、あそこで少し...

そして、気がつくと、「バーン!」と爆発してしまっている自分。

感謝の心どころではなくなって、せっかくのサンクスギビングも台無し。

サタンの策略はいつだって巧みだ。


だから、私は決めた。「絶対サタンの思い通りにさせるもんか!」

全てのことに心から感謝する。

そう、最大のボリュームで「デュエット」を歌う息子達も、

耳障りなハイピッチで参加する子犬たちも、

最後に「シンバルを力強く鳴らす」夫も。

全てのことに感謝。目の前のこの「バンド」に感謝。




すると、悪魔は逃げて行った。


「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」

ヤコブ 4:7

と記されているように。

感謝の心は、なんてパワフル!







「自
分には才能があるはずなのに...なんで上手く行かないんだ...」

「あの人のようになりたい!」
「あの人くらい_____ができるようになりたい!」


自分の目標や夢に達すことができず、もどかしく思っている時に

周りで自分が目指そうとする特定な分野で秀でている人を見ては、

自分もあんな風になれれば...と願う。

夢に向かって努力しているのに、なかなか思うようにならず、気落ちしている時に

夢をかなえて、キラキラ輝いている人が周りにいると、自分と比べてしまう...


夢というものは結構厄介なものかもしれない、そう思うことさえある。


夢。自分のやりたいこと。自分が得意なこと。自分らしく生きることができる、こと。

最近、「自分らしく」いられる場所が自分がずっと避けて来た場所だったことに気づいた。



目標とするなら、「
大道具、小道具、衣装、メイク」といった影で支える役よりも、

やはり「舞台の上に立つ役者」になりたい、そう思ってきた。

ずっとこだわってきたものを手放すのは簡単なことではなかったけど、手放したことで、

「自分らしく」いられる場所が見つかった。


ちょうど最近そんなことがあったばかりだったので、

先週の日曜礼拝のメッセージ「自分らしく生きる」は心に響いた。


神はモーセにこう指示した。

見よ、わたしはユダ族のフルの孫、ウリの子 ベツァルエル を名指しで呼び、彼に神の霊を満たし、どのような工芸にも知恵と英知と知識をもたせ金、銀、青銅による細工に意匠をこらし、宝石をはめ込み、木に彫刻するなど、すべての工芸をさせる。わたしはダン族のアヒサマクの子 オホリアブ を、彼の助手にする



出エジプト記 31:1-6


ベツァルエルの使命は「舞台の上に立つ」ことだった。

そのために必要な神の霊(神の力)、知恵、英知と知識を神から与えられた。

一方で、オホリアブは「ベツァルエルの助手」になるよう命じられた。



オホリアブの気持ちはどうだったのだろう。

「自分もベツァルエルの役を果たせる才能はある。」そうは思わなかったのだろうか。


神は、私たちそれぞれに使命を与えた。そして、その使命を果たせるよう、

私たちを自分の霊で満たし、そのために必要な知恵、英知、と知識を与えてくれる。


だから何も懼れることはない。

ただ、一つだけ邪魔ものが...

私たちのプライドである。


もし、
オホリアブの使命を与えられたら、自分は、どうするだろう。

「自分は、オホリアブでなく、ベツァルエルになる!」と思うか。

それとも、「オホリアブとしての使命を受け入れ、全力を尽くして、その使命を果たす」か。


向上心を忘れてはいけないと思う。

でも、と同時に、自分らしく生きるための場所は

必ずしも自分が頭に思い描いている場所であるとは限らない。


心をオープンにして、神を信頼し、自分を委ねるのなら、自分らしく生きられる。

「舞台に立つ役者」でなくとも、影で支える「大道具、小道具、衣装、メイク」の役でも

心をオープンにして、与えられた使命を心から受け入れるのなら、

自分らしく生きられる場所は、案外思っていたのよりも近くにあるかもしれない。