年の11月、息子達のクラスメートのお母さんが乳がんだと診断されました。

彼女は5人の子持ちで、下は4歳から上は12歳とまだまだ彼女を必要としています。

乳がん第三期で手術、抗がん剤治療とガンと闘っている真っ最中なのですが、

クリスチャンである彼女のたった一つの「心配事」は、

「もし自分が死んだら、子供達が神から離れて行くのでは...」
ということです。

神を信じ、自分を完全に委ねているので、「死」に対してのショックはあっても、

恐怖はなく、毎日感謝の心をもって、闘病している彼女です。


牧師の妻さんの「こころのブログ」で「『私にはまだ死ぬという仕事がある』三浦綾子」の記事


(このブログ記事の最期に添付してあります。)を読んで、

ちょうど最近自分の脳裏にもちょくちょく浮かんでくる「死ぬということ」

についてもう少し深く考えてみました。


私は毎週水曜日の夜に息子達のクラスメート数人のママさんたちとお祈り会をしています。

子供達、夫たち、自分たち、家族、学校、コミュニティ、などなどのために祈っています。

先週の集まりで、リーダーのテリーアンが言った言葉で、心にインパクトをうけたものがあります。


「私はいつも、子供達に、自分がもしこの世を早く離れることになった時のために

心の準備をしてあげてるの。『この世は私たちにとって、旅行中のワンストップでしかない

ということを頭に植え付けている。人はみないつかは死ぬ。私たちの本当の家は

天の国にあって、ここではない。だから、もし自分が早く天の国に帰ることになっても

どうってことない。』っていうことをいつも言い聞かせてる。もし自分が

思ってたより早く天国に呼び戻されたら、子供達が神をうらまないようにね。」

と、シェアしてくれました。

「子供たちが神をうらみ、神から離れて行く...」クリスチャンなら

共通の心配事なんだなぁとつくづく思いました。そして、テリーアンは自分が旅人だということを

完全に理解し、受け入れていることに気づきました。



「こころのブログ」でも言っているように、「死」はタブーなトピックだとされ、

人は口にしません。縁起が悪い、不幸を招くからといった不安からそんな話題は避けて通りますよね。

でも、口にしないから、考えないからって、無くなるものではありません。

むしろ、「死」を意識して生きることで、もっと充実した人生になるのではないでしょうか?


「死」を意識する。それはどういうことなのだろう?

「いつ死ぬか分らないから、先のことは考えず、毎日を楽しめばいい」ことなのだろうか?

それは人それぞれですが、クリスチャンにとっては、「この世に執着しない」こと

だと思うのです。テリーアンが言ったように、私たちはただこの世に

立ち止まった旅人で、まだ終着点に到達していないからです。


「死を意識する」ことは、いつ本当の家に帰ることになってもいいように

心の準備ができていることなのではと思います。

でも、だからと言って、何をしてもいい、好きなことをして、毎日を楽しめばいい

というものではないと思います。


悔いのないよう、やり残したことがないよう、毎日が最後のつもりで、

ベストを尽くして生きるのは大事です。

でもそれは、ただ毎日が楽しければいいというのではなく、

「死ぬという仕事」をうまくやり遂げることに繋がるからです。


「死」を「平安をもって快く受け入れる」か、「苦痛をもって仕方なく受け入れるか」

まさに「死ぬという仕事」だなぁと思わずにはいられません。

最後の仕事なら、きちんと終わらせたい、そう思いませんか?