旅行中なため、曜日も日にちも分らなくなった今日この頃、
気がつけば、イースターがすぐそこまで来ていました!
幸い、この週末、遠出の予定がなかったので、日曜日は妹の教会に行けました。
去年から正式に英語の礼拝が開始されたようです。
普段は中国語の礼拝に参加している妹にとっても、
自分の教会での初めての英語礼拝となりました。
教会に着いて6階までエレベーターで上り、エレベーターのドアが開いた瞬間、
なじみのある英語の讃美歌が聞こえてきました。
途中で、次男が「台湾にいるとは思えないね」とささやきました。
そう、一気に北米にテレポートしたみたいでした。
さて、この日の説教ですが、シンプルながらパワフルなものでした。
「全てが変わった日」と題したメッセージを語る牧師は、
『キリストを信じるだけでは足りない』と言いました。
正直のところ、その一言で「えっ?!」と警戒心を持ってしまった私でしたが...
なぜなら、プロテスタントの信仰の核心は
『キリストを信じる心 ―信仰心ー(Faith)』にあって、
『行い(Work)』でも、『信仰心+行い(Faith + Work)』でもないからです。
だから一言で『キリストを信じるだけでは足りない』とだけ聞くと、
「????」と思ってしまうのでした。
ところが、牧師さんの本旨は「『クロス(十字架)』に留まるな」にありました。
『十字架』は『イエスの死』を象徴し、イエスを信じる者の罪が
十字架で流れたイエスの血によって、清く洗い流されたことを意味します。
でも、それだけでは真髄に達していません。
イエスの11人の弟子(ユダはイエスの処刑時にはすでに自分の命を断っています。)は、
3年間もイエスの最も身近でイエスに習い、
数えきれない程の奇跡を目撃したにも関わらず、
イエスが逮捕され、不正の裁判にかけられたあと処刑された時、
一人残らず逃げ隠れてしまいました。
それだけではなく、例えば、ペテロは、
鶏が鳴く前に三度もイエスとの関係を否定しました。
なぜ、目の前で神の業としか思えない奇跡を数えきれない程目撃したのに、
その後で怖じけづいてしまったのか...
ところが、後々、イエスの知り合いであることをも否定したペテロは処刑される時、
イエスと同じように十字架にかけられて死ぬのに値しないとして、
逆さまに十字架にかけるよう、願い出たのです。
ペテロだけではなく、無人島に流刑にされたヨハネを除いて、
他の9人の弟子もみな処刑され、殉死しています。
イエスの処刑に立ち会い、自分も同じ目に遭うのを恐れて逃げ隠れした弟子たちに
その後何が起き、殉死してまでもキリストの愛を説くことをやめなかったのか。
答えはここにあったのです。
イエスが死から蘇り、弟子たちの前に現れたのです。
イエスが蘇ったということは、神が『「イエスという子羊の血」によって、
私たちの今までの、現在の、そしてこれからの罪が一切償なわれたこと』
を認めたというしるしです。
イエスは生き返り、昇天し、神の右の座についています。為すべき任務を終えたからです。
実際に蘇ったイエスに会い、聖霊を吹きかけられて、弟子たちのその後の人生が変わりました。
死を脅迫されても、福音を伝えることをやめられない情熱と勇気。
弟子たちは、その日、初めて十字架の向こうに進むことができたのです。
「十字架」までたどり着くことはそんなに難しいことではないのかもしれません。
ですが、「十字架」で留まっては、その先にある本当の勝利を味わうことができません。
イエスが十字架にかけられ、イエスの死によって自分の罪は償われたことを信じても、
怖れずに生きられるとは限りません。イエスの弟子たちがそのいい例です。
でも、イエスは死にも打ち勝ちました。
私たちはそれによって、既に勝利を獲得しています。
神はそれを私たちに理解してほしいのです。
これを心から理解できたことで、弟子たちの怖れは形もなく消え、
十字架の向こう、蘇ったイエスのいるところまで
一歩一歩歩んで行く勇気が湧いて出たのでしょう。
十字架の向こうに進む時、全てを変える勝利が自分のものとなります。
今日、あなたが怖れているもの、ことはなんですか?
十字架に留まっていても、イエスはもう十字架の上にはいません。
確かに十字架の上で流されたイエスの血によって、私たちの罪は洗い流されました。
でも、立ち上がって、十字架の向こうに一歩踏み出すことを忘れないでください。
その一歩を踏み出せた時、全てが変わる日となります。
クリスチャン歴20年にもなる私ですが、このメッセージを聞いて
自分は十字架の元に長い間留まっていたことに気づきました。
処刑後にイエスが再び現れる前に、戸を閉めて、二階の部屋で身を隠し、
ビクビクしていた弟子たちとあまり変わらない気がします。
今年の「全てが変わった日」イースターを祝う機に
確実に十字架の向こうに進み出たいと思いました。
気がつけば、イースターがすぐそこまで来ていました!
幸い、この週末、遠出の予定がなかったので、日曜日は妹の教会に行けました。
去年から正式に英語の礼拝が開始されたようです。
普段は中国語の礼拝に参加している妹にとっても、
自分の教会での初めての英語礼拝となりました。
教会に着いて6階までエレベーターで上り、エレベーターのドアが開いた瞬間、
なじみのある英語の讃美歌が聞こえてきました。
途中で、次男が「台湾にいるとは思えないね」とささやきました。
そう、一気に北米にテレポートしたみたいでした。
さて、この日の説教ですが、シンプルながらパワフルなものでした。
「全てが変わった日」と題したメッセージを語る牧師は、
『キリストを信じるだけでは足りない』と言いました。
正直のところ、その一言で「えっ?!」と警戒心を持ってしまった私でしたが...
なぜなら、プロテスタントの信仰の核心は
『キリストを信じる心 ―信仰心ー(Faith)』にあって、
『行い(Work)』でも、『信仰心+行い(Faith + Work)』でもないからです。
だから一言で『キリストを信じるだけでは足りない』とだけ聞くと、
「????」と思ってしまうのでした。
ところが、牧師さんの本旨は「『クロス(十字架)』に留まるな」にありました。
『十字架』は『イエスの死』を象徴し、イエスを信じる者の罪が
十字架で流れたイエスの血によって、清く洗い流されたことを意味します。
でも、それだけでは真髄に達していません。
イエスの11人の弟子(ユダはイエスの処刑時にはすでに自分の命を断っています。)は、
3年間もイエスの最も身近でイエスに習い、
数えきれない程の奇跡を目撃したにも関わらず、
イエスが逮捕され、不正の裁判にかけられたあと処刑された時、
一人残らず逃げ隠れてしまいました。
それだけではなく、例えば、ペテロは、
鶏が鳴く前に三度もイエスとの関係を否定しました。
すると、門番のはしためがペテロに、「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね。」と言った。ペテロは、「そんな者ではない。」と言った。
この他にも二度、ペテロはイエスを知っていることを否定しています。ヨハネの福音書 18:17
なぜ、目の前で神の業としか思えない奇跡を数えきれない程目撃したのに、
その後で怖じけづいてしまったのか...
ところが、後々、イエスの知り合いであることをも否定したペテロは処刑される時、
イエスと同じように十字架にかけられて死ぬのに値しないとして、
逆さまに十字架にかけるよう、願い出たのです。
ペテロだけではなく、無人島に流刑にされたヨハネを除いて、
他の9人の弟子もみな処刑され、殉死しています。
イエスの処刑に立ち会い、自分も同じ目に遭うのを恐れて逃げ隠れした弟子たちに
その後何が起き、殉死してまでもキリストの愛を説くことをやめなかったのか。
その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。
イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
(ヨハネによる福音書 21:19-22)
答えはここにあったのです。
イエスが死から蘇り、弟子たちの前に現れたのです。
イエスが蘇ったということは、神が『「イエスという子羊の血」によって、
私たちの今までの、現在の、そしてこれからの罪が一切償なわれたこと』
を認めたというしるしです。
イエスは生き返り、昇天し、神の右の座についています。為すべき任務を終えたからです。
実際に蘇ったイエスに会い、聖霊を吹きかけられて、弟子たちのその後の人生が変わりました。
死を脅迫されても、福音を伝えることをやめられない情熱と勇気。
弟子たちは、その日、初めて十字架の向こうに進むことができたのです。
「十字架」までたどり着くことはそんなに難しいことではないのかもしれません。
ですが、「十字架」で留まっては、その先にある本当の勝利を味わうことができません。
イエスが十字架にかけられ、イエスの死によって自分の罪は償われたことを信じても、
怖れずに生きられるとは限りません。イエスの弟子たちがそのいい例です。
でも、イエスは死にも打ち勝ちました。
私たちはそれによって、既に勝利を獲得しています。
神はそれを私たちに理解してほしいのです。
これを心から理解できたことで、弟子たちの怖れは形もなく消え、
十字架の向こう、蘇ったイエスのいるところまで
一歩一歩歩んで行く勇気が湧いて出たのでしょう。
十字架の向こうに進む時、全てを変える勝利が自分のものとなります。
今日、あなたが怖れているもの、ことはなんですか?
十字架に留まっていても、イエスはもう十字架の上にはいません。
確かに十字架の上で流されたイエスの血によって、私たちの罪は洗い流されました。
でも、立ち上がって、十字架の向こうに一歩踏み出すことを忘れないでください。
その一歩を踏み出せた時、全てが変わる日となります。
クリスチャン歴20年にもなる私ですが、このメッセージを聞いて
自分は十字架の元に長い間留まっていたことに気づきました。
処刑後にイエスが再び現れる前に、戸を閉めて、二階の部屋で身を隠し、
ビクビクしていた弟子たちとあまり変わらない気がします。
今年の「全てが変わった日」イースターを祝う機に
確実に十字架の向こうに進み出たいと思いました。