妹に母を紹介するかたちで告別式でのスピーチを頼まれました。切羽詰まった中、まとめてみたのがこれです。
中学校の時、母に「将来、ママみたいなママになる。」と言ったことがあります。自分が母になって、それがいかに難しいことかよく分りました。
私たちの母は、見るからに典型的な「良妻賢母」で、優しくて、良くできる人でした。家事なら何でもできて、家の中のことは何も心配せずに、父は仕事に、私たちは勉強に専念できました。
ですが、一言で母を語るなら、私は「強さ」だと思います。日本語が全然できないのに、幼い4人の子供を連れて、父に付いて、家族と知り合いもいない異国の地に移民しました。母の歩んできた道はきっとたくさんの苦労があったと思います。でも、母は一度も私たちに自分の苦労の愚痴をこぼすようなことはしませんでした。ただ、ある年の大晦日に、台湾にいるおばさんと電話で話している時に、突然母が泣き出し、びっくりしたことがあります。その時、初めて母の心の寂しさを知りました。ここ10年、父と母が台湾に戻ってきたので、母はまた親戚や友達と頻繁に会うことができるようになりました。去年、母は初めて小学校の同窓会に出席することが出来て、すごく嬉しそうでした。
自分のニーズよりも私たちのニーズを優先してきた母ですが、勉強好きなところは、自分の背負っている責任で後回しにされることはありませんでした。台湾にいたころからお花や裁縫を習っていて、日本に行ったあとは、自転車が乗れるようになりました。(そうです、母は日本に行ったあとに初めて自転車に乗れるようになったそうです。)
びっくりなのは、運動神経があまりよくない母ですが、テニスや水泳(平泳ぎはもちろん、フリースタイル、背泳ぎ、バタフライも!)もできるようになったことです。母は、私たちがピアノを習っていた時は、ピアノ、英語を習っていた時は英語を一緒に習っていました。その後、母は、旭川にあったアメリカ大学に入学し、若い大学生と一緒に勉強しました。英語で授業を受けるのは、簡単なことではないし、宿題も難しかったのですが、母は毎日夜中の2時まで一生懸命勉強し、大学生活を楽しんでいました。ですが、ある日、その大学は経営不良で閉校してしまい、母の夢の大学生活もそこでピリオドを打ちました。ですが、母の勉強する姿勢は、私たちのよい模範となり、励ましとなりました。ここ数年、母は手芸のクラスや、カラオケのレッスンを受けるなど、趣味は数えきれないほどあり、充実した毎日を過ごしていました。ある時、父はマッサージ椅子を買ってあげたかったのですが、母は、それよりも、手編み機が欲しかったみたいです。
でも、母はやはり「母親」です。子供達が成人した後は、孫の世話で忙しくなりました。娘たちと嫁の産後ケア、産まれたばかりの7人の孫のためにここ13年「インターナショナル産後ケア専門家」として4ヶ国を飛び回っていました。今回、母は、二週間前に出産したばかりの妹のケアをすることはできませんでしたが、一人目の孫娘が一ヶ月も早く産まれたことで、母は赤ちゃんの写真を見ることができて、とても嬉しそうに笑ったと聞きました。
母は、温厚な性格で、生前は誰とも仲良く付き合えました。批判せずに人の話を聞いてくれるので、気兼ねなく何でも話せました。特に父と母はよく語っていました。子供の頃、寝る前にベッドの中で話をする二人を見るのが好きでした。そのシーンを見ると安全感があり、幸せに思えました。
私たちは、こんな母のことをこれからもずっと想っていることでしょう。母が残してくれたよき想い出と母のしてくれたことは、一生忘れません。お母さん、ありがとう。お母さんを母に持てて、本当に幸せです。