日は、年が明けての初礼拝、初聖餐でした。


主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」

夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」


ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。

コリントの信徒への手紙 1 11:23-26




イエスが処刑される前の最後の晩餐。

そこで、イエスはパンを裂き、ワインを杯に入れ、弟子たちに

「これを行い、主の死(の意味)を宣べ伝える」ように指示しました。



イエスの体は、そのパンのように裂かれ、

イエスの血は、そのワインのように注がれました。


「それくらい過酷な仕打ちを抵抗なく受けたことを覚えていなさい」

とイエスが主張するのはなぜでしょう?


自分がどれくらいのことをしてやったか

という気持ちからでしょうか?


もちろん、そうではなく、イエスにとって、

私たちはそれくらいの代価を払う価値があり、

イエスは、それくらい私たちを愛しているからです。


だからイエスは、聖餐のたびに、

裂かれたパンを食べ、注がれたワインを飲むことで、

自分が私たちのために犠牲となってくれたこと、

それくらい愛してくれていることを覚えていてほしいのです。


今日の牧師さんの言葉を借りると、

「私たちがいろんなことを覚えていられるように

スマートフォンのアラームを設定するのと同じで、

イエスは、私たちのための『アラーム』を設定してくれました。


その『アラーム』がなり出す時、

「愛していることを覚えていてくれ」という

イエスの思いが聞こえてきます。


それを心から理解できるとき、

パンを一口一口噛み締めるのも、

ワインをのどの奥に流すのも、

感謝いっぱいの気持ちになれます。


2016年初礼拝で、初聖餐に参加できたのは、

とてもよいスタートとなりました。