浦綾子著「残像」読了しました。

この小説は、二つの家庭をめぐる物語で、主人公真木弘子は、

世間体を固守する「事なかれ主義」の父洋吉、

何が起きても動じない、感動のない母勝江、

金銭と物質を「神」とする小悪党の兄栄介、

そして、いつも片隅にいて、静かで気を遣いすぎる兄不二夫

と暮らしています。


物語は栄介によって引き起こされる悲劇から始まります。

女遊びの好きな、無責任で非情、なおかつ冷血な栄介は、

妊娠した、と訪ねて来た紀美子を玄関払いし、

「死にたければ、死んだらいいだろう。」と吐き捨てる。

紀美子は、その言葉の通り自殺してしまったのだが、

栄介は通夜にも、葬式にも、初盆にも

一度も顔を出したことがないだけではなく、懺悔の気持ちすらない。

弘子は、謝罪せずにはいられなく、栄介の代わりに紀美子の家族を訪れる。


物語は、弘子の家族関係と、

弘子と紀美子の家族(父の市次郎、兄の治、従兄の芳之)

の関係をめぐって発展されていく。



栄介の非情さに「実際、ここまで冷血な人がいるのだろうか」

と絶句してしまうほかに、印象に残っているのは、

「赦す」ということです。(これは隠されたテーマの一つであるのでは

と思いながら読み続けました。)



紀美子の父、市次郎は、弘子の詫びを受け入れ、仲良くしていくことで、

紀美子と同い年の優しい弘子の存在に慰められる。

それとは逆に、紀美子の兄、治は、自分の妹を自殺に追いやった

冷血な栄介の妹を赦せないばかりではなく、

復讐(しかえし)をしようと企んだりする。



ストーリーの中で頻繁に浮き出る「赦す」

というトピックについて考えさせられました。


今まで、人を「赦すか赦さないか」

という選択に面したことが一度だけあります。

日常的に例えば、「むかっ!」ときたことに対して

相手を赦すというようなのではなく、

「このままこの人を恨み続けるか、ここで全てを忘れて、前に進むか」

という選択です。


私は、後者を選びました。

聖書にはこんなことが書かれてあります。

イエスの弟子であるペトロがある時、イエスにこう聞きました。


「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」(マタイによる福音書 18:21)


それに対して、イエスはこう答えました。


「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」
(マタイによる福音書 18:22)


七の七十倍。「490回」という答えではありません。

「七」は聖書の中では、「完璧」という意味を持っています。

イエスの答えは、「何回でも」という意味です。

なぜなら、神は私達の罪を全て赦してくれました。

赦してもらった私達になんの資格があって、他人の罪を赦せないと言えるのでしょうか。

イエスは、こんなたとえ話を通して、これを説いてます。



「天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。


決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。


しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。


家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。


その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。


ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。


仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。


しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。


仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。


そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。


わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』


そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。


あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

マタイによる福音書18:23-35


でも、恥ずかしながら、私が「赦す」と決心したのは、

この教理が源にあったからではありませんでした。

一クリスチャンとして、イエスの教えに従う心はもちろんあったのですが、

それよりも、自分が楽になる道を選んだのだと思うのです。


心に恨みがあっては、苦しいのは自分だ。

相手は痛くもかゆくもなく、自分が苦しんでいることさえ

知らないだろう。それどころか、もしかしたら、

悠々と幸せに暮らしてさえいるのかもしれない。

過去に縛られて、身動きの取れない人生を送りたくない。

心が「恨み」という毒で朽ちてしまわないために、

「恨み」を門前払いしたのだと思います。


そんな利己主義な理由で決めた選択でしたが、

神は私の選択を通して、祝福してくれ、恵みを与えてくれました。

おかげで、傷が癒えるまで時間はかかったものの、

「恨み」に心を占領されずに済みました。

それだけでも、神からの恩恵と憐れみだと思って感謝しています。



紀美子の兄、治は「恨む」ことに執着し、

無実で、全く関わりのない弘子に対して、

栄介の妹ということだけで、復讐を企みました。

自分がした苦しい想いを栄介にもしてもらいたい、

そういう一心で、弘子の幸せを妨げようとします。

「目には目を」。頑固として譲らない治は、

弘子の幸せを壊そうとする中、

自分が全然幸せではないという事にも気付きません。

治は、「恨み」の奴隷となってしまい、

自ら自分の心に鎖をかけてしまったのです。

その一方で、父、市次郎は、「赦す」ことを選び、

それによって、心の傷は少しずつではあるが、癒えていきます。


正反対な選択によって導かれる二人の生き方が脳裏に付着したまま、

心の中で「七の七十倍」
と思いながら、私はページを閉じました。