てたいのに捨てられない仮面がある。


人に本当の自分を知られたくない時につける仮面。

人から批判、非難されるのを避けるための仮面。

問題から逃げる時につける仮面。

都合の良い時につけてしまう仮面。。。


もとを辿って行けば、そこには

「自分」という傲り高ぶったものがある。

誰からも好かれたい「自分」がいる。

そのために、なりたい自分になれない自分がいる。


参加している、あるFBのグループでの投稿が目に入った。


「アバ、父」と魂が叫ぶと、涙が溢れてきました。

主がこうおっしゃっているように思ったのです。
「お前はどうしたいのか。」

人に左右されてしまっていた自分、
人に流されて見失いかけていた自分
が、
「アバ、父」と叫んだような気がしました。

人にどう言われたか、
人がどう生きているか、ではなく、
私はどう生きたいのか、という視点
に戻れたような気がします。

alleluia!
主の平安が私たちと共にありますように。


心にグサッときた。

今、まさに自分に問いかけている問題だからだ。


そして愛読しているブログの最新投稿で

取り上げられた与謝野晶子と彼女の歌からも。


晶子は「歌は本心でなければならない」とし、「本心を歌わぬ歌に、何の値打ちがあるだろうか?」と言っている。


「歌は歌に候。歌よみならひ候からには、私どうぞ後の人に笑はれぬ、まことの心を歌ひおきたく候。
まことの心うたはぬ歌に、何のねうちか候べき。まことの歌や文や作らぬ人に、何の見どころか候べき。」
(『明星』1904年11号「ひらきぶみ」より)


(愛読している『こころのブログ』より。ブログへはこちら


自分は何のために書くのか。

心にあることをすべて素直に、正直に書かないのなら、

果たして、書く意味があるのか。


言っていることに偽りはない。

ただ素直に全部出し切っていないだけだ。

でも、その部分がたったの1%だけだとしても、

本物の本物ではない。

偽りだ。

仮面をかぶっている自分だ。


仮面をとるのが怖いうちは、

人生を積極的に生きていない

ということではないだろうか。

自分の人生を生きていないということ

ではないだろうか。


自分では態度を変えたつもりでいたが、

先日、また仮面をつけてしまった自分を見た。

一秒置いてから、仮面に手をつけてしまった自分。

明らかに意志的にそれを選択した。



そんなことがあって、

このトピックがまた頭の中でぐるぐる旋回し始めた。