神は死んだのか


画 『God is Not Dead (邦訳:「神は死んだのか?」)』

DVDを購入してから一ヶ月ほど経ったでしょうか、

昨夜ようやく観ることができました。

夫は夜勤、次男はお泊まり会、末っ子は夢の中、

なので長男とリビングでムーヴィーデート。



いろんな方がブログでこの映画について語っているので、

詳細は省きますが、あらすじは、

必修科目である哲学のクラスで、

クリスチャンである大学一年生のジョシュは、

無神論者の教授が「神は死んだ」と紙に書いてサインをするように

最初の授業で生徒全員に要求したのを

自分の信仰に反するため出来ないと拒否したために、

「神は死んでいない事」を弁論させられることになり、

自分の成績、学歴、そして将来の道をかけて、弁論に臨んだという話です。

(愛読している「こころのブログ」(こちら)

もっと詳しく書かれてありますので、興味のある方はどうぞ。)



このストーリーの主旨は、クリスチャンとして信仰が試された時、

代価が何であっても自分の信仰を貫くか、

それともそれを折り曲げて妥協して周りに合わせるか

ということに有ると思いますが、個人的に

先週の日曜礼拝で教わった、要するに、

「罪を憎んで人を憎まず」というレッスンをこの映画を通して

長男にも伝える機会を持てた事に感謝しました。


クリスチャンはこの世界には善と悪の力があると信じています。

善の力は、もちろん神からですが、

悪の力は、かつて一天使であったが、

自分が神に取って代わろうと企んだために

天国から追放されたサタンから来ています。



追放されたものの、サタンは、いろんな手段を使って、

人を神から引き離そうとしています。

ですので、私たちクリスチャンが
日々闘っているのは

目に見えない、
霊的世界におけるこの「悪の力」です。


「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。」
エフェソの信徒への手紙 6:12


パウロはエフェソの信徒への手紙でこの事をリマインドしています。

困難に直面した時、一番最初に私達が矢の先を向けるのは「人」です。

ですが、パウロがいっているように、私達の闘いは、

目に見える人やものではなく、

その背後にある悪の力に対するものでなければならないのです。



この映画の場合、教授に対して敵意を抱いてしまいますが、

教授は単にあやつられている人形の如くでしかなく、

実はそのバックで教授の思考や、行動を操る

サタンに敵意を向けるのが本当です。


先週の礼拝で、牧師さんは、

「我々の敵意が「人」に向けられた瞬間、

私達は間違いを犯したことになる。」と言いました。

なぜなら、敵意が「人」に向けられるとき、私達の中で愛がなくなる。

それは、私達を「人」だけではなく、神からも引き離してしまう。

「憎しみ」も生まれ、キリストの最も重要な教え

『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』(ルカ書 10章27節)

とかけ離れてしまう。

なるほどと納得しました。


長男は、無神論者の教授がジョシュを嘲笑しているのを観て

その教授の悪口を言い始めました。

そのとき、礼拝で牧師さんが言っていたことを思い出し、

長男に教えてあげることができました。

瞬間に、長男はだまり、静かに聞いてくれました。

教授に敵意を抱くのは、全く的外れだと分ったほしかったのです。

嘲笑されたからといって、教授という「人」を敵とすることは、

的外れなので問題解決にならないだけでなく、

クリスチャンの本当の教えにも反する事で、

神の愛を伝えるどころか、逆効果になってしまいます。

同意はできなくとも、敵になる必要はない。

人間である以上、気持ちもからんでくるので、

容易なことではないのですが、

大きくなっても、ずっと覚えていてほしいレッスンです。


間違ったターゲットに気をとらわれずに、

主を愛し、隣人を愛することをこれからも

私自身が身をもって教えていかなければ

と思ったムーヴィーデートでした。