こんにちはゆうです。
ご縁をいただけたこと心から感謝しています。
ここカナダもとても春らしくなってきて庭の花が咲きはじめました。![]()
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あんなに寒い冬の後に毎年あたり前のように順番にいろいろな花が咲いてゆきます。
花たちの強さに毎年感動します。![]()
私たちもみんな花のように冬を超えて花を咲かせるときが来るのですよね。
そして、夏と秋を過ごし寒い冬はまたやってきます。
それが自然のサイクルであって、この2元の世界の中でナチュラルなこと。
もし苦しくても、必ず春はやってきます![]()
私たちって愛されたいとおもうし、愛したいと思いますよね?
でもまずそもそも愛って何だろうか?
そんな風に感じることはないですか?
全てを愛しましょう~~愛は与えるものです。
そのような美しい言葉は心に染みますが、でもそもそも愛とはなのでしょうか?
愛はハート
で感じるものだと思いますが、その愛はみんな同じなのでしょうか?
そんな風に感じた事はありませんか?
愛の定義はみんな同じなのでしょうか?
相手のためにと思ってしたことが、相手に迷惑がられたり・・・・・
時には良かれと思ってしたことで嫌われてしまったり・・・・・
こんなとき心が痛みますよね。
逆に相手が自分のためにしてくれているのに、それがどうも心地よくないと感じて素直に受け取れなかったり・・・・![]()
または、なぜこんなに愛しているのに愛してくれないの?なぜ分かってくれないの?
そんな風に感じたりしたことがきっと一度はあるのではないでしょうか?
そして愛することで傷つくのを恐れるようになってしまうようにも思います。
時にはすごく愛されているように体験していたのに急に相手が変わってしまったように変化したり・・・・![]()
逆に急に自分の愛が冷めたように感じたり・・・・![]()
何が起こっているのか全く理解不能に感じることもありますよね?![]()
振り返ると、愛したくて、愛されたくて、認めたくて、認められたくて意識的に、時には無意識でいつも頑張ってましたね。
そして傷つくのが怖くて心を悩ませていた日々・・・・それらの涙ぐましい努力や苦悩を思い出します。![]()
なぜこのようなことが起こるのでしょうか?
ここが真にわかってゆくと、今までの過去に分からなかった多くの謎が解けるかもしれません。
苦しみが終わりに近づいているかもしれません。
私達てどうやら”主観的”にしか世界を認識することができないようなんです。
苦しみの原因はここに気づいていないためのようです。![]()
全ての人が真にユニーク(唯一の、一意の、固有の、特有の、独自の、独特の、類稀な、珍しい、変わった、などの意味を持つ英単語。)な表現体のようなんです。
このために、主観的にしか認識ができないのは当然であり、利己的にならないように努力することはできますが、
でもどこまで頑張っても利己的になってしまうようです。
私たちが何かを認識するとき、その認識をするための定義や概念というフィルターが必要になり、そのフィルターを使って自分の内側で世界を認識をしますよね?
このために、どんなに想像力を巡らせて頑張っても、主観的にしか判断できないようです。![]()
そのために相手に合わせる、相手と同じ思いになるというのはどうやら不可能の様です![]()
合わせたつもりでいることはできるし、同じ思いでいると信じることもできます。
でもきっと体験したことがあると思いますが、誰かと一緒にいても遠くに感じたりということはありませんか?
なぜなら、自分のフィルターを通してしか認識ができないために、真に同じ思いで分かり合えることは不可能であり、それは当然なことのようです。
お互いが別のフィルターを使って認識しているのであれば、同じであることは不可能ですものね。
この考えを聞くと最初は寂しさを感じるかもしれません。
分かり合っているという美しいストーリーを信じることは素晴らしいことだと思うし、そのような状態で幸せならそれはとても素敵なことだと思います。
でも、もし誰かと一緒にいて、
心のどこかで相手が何を考えているか不安を感じたり、
相手の本心が分からなくて苦しかったり、
周りの人の目が気になるという思いがあるのであれば
この考え方を試してみたとき、違う体験が起こるかもしれません。
なぜなら、この事実に気づくことで、お互いに正直に自然に振る舞えるようになり、以前より近く感じるようになってゆく体験をするかもしれないからです。
利己的になってはいけないという道徳的な考えではなく、利己的でしかありえないと知っている方が、リアリティーを体験できるようになるかもしれません。
また究極に完全に利己的であることを追及したり、究極に完全に利他的であることを追及してゆく先にはワンネスにたどり着くといわれます。
ワンネスとは、もともと深い部分では一つであるということであり、分離というのが錯覚であることに気づいてゆくことになります。
もともと一つであるがユニークな存在として体験をしているということが分かってくると、真に何が起こっているのか分かり始めます。
私たちは個人として生きているという体験をしているために、誰もがレベルの差があっても特別でありたいという思いがありますよね。
それは社会で、仕事で、家庭で、学校で、どんな場所でもこの特別でありたいという思いがあると思います。
比較競争社会の中で生きてきたので当然のことですよね?
私はそんなことはないと感じていても、人の目を気にしないで生きることができる人って本当にいるのか?と感じませんか?
そしてこの世界の大きな矛盾が、比較競争という社会でありながら、同時に道徳的に「みんなを愛しましょう~~」と学ぶことだと思います。
これは私たちを苦しめますよね?
比較をしながら、みんなを愛する?そんな矛盾の中で誰もが苦しんでいませんか?
私たちは主観的にしか判断できないので、自分のよいと感じることは、相手のよいとかんじることと違って当然であり、
相手に合わせることや相手のためをおもってすることが、相手にとってはそれは押し付けられているように感じたり、コントロールされているように感じたりするようです。
利他的になることは実際は利己的だったことに気づいて驚くことが多々あります。![]()
ここに体験を通して気づいてゆくと、少しずつ、どうやら自分の信じていた愛とは何か違うのかもしれない。
という気づきが起こり始めるかもしれません。
愛って本当はそこに定義はなく、もし定義があるとしたら、定義をつけることができない制限のない自由であることのように思います。
それぞれがユニークにあるがまま生きることを尊重しあうことが愛のように思います。
違っていることが真に当然であると分かっているときそのまま、あるがままの相手を尊重できるようになります。
そして自分もあるがまま正直に生きられるようになります。
自分が自分のままでいられることがどれほどの安堵感か?![]()
笑顔になろうとする必要もなく、自然に口角が緩みます![]()
実は正直であることの方がずっと自然にお互いの愛をハートで感じられるのだと体験が起こるかもしれません。
そのとき、ここに無条件に愛がいつも溢れていた事実に気づけるのかもしれません。
でもそれぞれがあるがままで生きてしまったら世界に秩序がなくなってしまうのではないか?
そんな考えが浮かぶかもしれません。
でも真に主観的にしか認識できないのであれば、
愛されるためとか、認められるため、相手のため、周りのためのと自分のフィルターを使って判断した行動が無意味なことが分かり始めます。
そしてこの事実に気づくことで、損得や取引という考えがマジで無意味であることが分かり、自然に消えてゆきます。
そして頭での考えではなく、ただたたあるがまま生きることによって調和の世界の体験が始まります。
また無理して合わせて(実際は合わせているつもり)の行動ではないために、特に見返りを求めることがなくなり、期待がなくなってゆきます。
だってどう頑張っても相手は相手の判断でしか判断が起こらないのですから、期待することが無意味なのが分かり始めます。
そのために傷つくこともなく、絶望することもなくなってゆきます。
この状態のとき、大きな解放とともに、自由に表現を楽しめるようになってゆきます。
また自分の特定な定義や概念(フィルター)を使っての制限されていた期待がなくなることで今まで気づかなかった周りの人の愛や自分の愛を体験を通して気づきはじめます。
そして自然に全てが調和してかかわりあっているというリアリティーが見え始めます。
そこに完全性(ワンネス)の体験が起こるかもしれません。
誰かや何かに求める必要も、与えられる必要もなく、どこかに探そうとする必要もなく、ただただそのままで愛の中にいたことに気づけるのかもしれません。
あなたがあるがままのユニークさの中で自由に喜びを体験できますように

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