こんにちはゆうです。
ご縁をいただけたこと心から感謝しています。
日本は暑さが続いているのでしょうか?
ここカナダは涼しくなってきていたのですが、今週また夏日になり、残り少ない夏を楽しんでいます。
この世界はとてもシンプルにできています。
私たちは沢山の概念・考えを信じていることで、そのシンプルさがわからなくなっています。
驚くほど沢山の思い込みを持っていることで複雑に感じてしまうからなのですよね。
そして多くの場合、思い込みを持っていることで、生き辛いということに全く気付いていません。
「苦しみというのは、無知により起こる」
といいますが、苦しみとは、運が悪いわけでも、世界が不公平にできているからでもなく、自分の何らかの思い込みによって体験するものだったんです。
世界は全く平等にできていて、全ての人が同じ法則を使って生きています。
自分の内側に持っているものを外側に映しだして生きている、それだけの世界にいます。
自分の思いをそのまま外に投影しているだけの世界です。
内側が愛であれば、外に愛を投影します。
恐れであれば、恐れを投影します。
驚くほどシンプルで、そこに何も謎はないんです。
そのように見えないし、体験できないために、私たちはこのことを学んでも学んでも、なかなか腑に落とせないし、生活の中で上手く使えません。
頭で理解しても、それを実生活で実践的に使うことは、驚くほど簡単ではないのですよね。
私たちは自分の考えが正しいとしか思わないために、自分が信じたとおりに世界を見てしまうからです。
そして自分の考えを変えることをとても嫌います。
その考えが自分を苦しめていることに全く気付いていないからなんです。
全く同じ状況でも、人によってチャンスと見る人、ピンチと見る人がいるのは、その人の観念によるものなんですよね。
優しさからの行為を、「何か下心がある!」と疑いを持つことで、相手を信頼できなかったり。
愛を伝えてくれているのに、「愛される資格がない」と信じていることで、愛を受け取れないということが起こります。
この世界は驚くほど愛で溢れた世界なのに、その愛が自分の信じている考えによって観えないのですよね。
自分の考えがいつも正しいと信じているからです。
これは脳の作用なので、意識していないと当たり前のように無意識に自分を苦しめる考えを自動的に採用して生きています。
私も長い間、この世界が愛と平和の世界だったが事が全く分からないでいました。
自分の内側の投影であると、心理学で学んでも、それを真に生活の中で観ることをしてこなかったからです。
でも、膨大な時間とお金を使って学んでも、相変わらず恐れを体験したり、問題と感じる出来事が起こるので、真に幸せだけの人生を選びたいと心に決めました。
「真実が本当に観たい」 という思いで日常を使い始めました。
自分が本当に創りだしている世界であることを真に理解したいと思い
日々自分の内側を見つめるために、世界を使い始めたのです。
そして、この世界は、「本当に全てが自分の投影だったんだ!」 という驚く体験をしています。
ここが深く真にわかり始めると、問題だと見えた時、自分の内側にあるその原因にきづくことで、全く違う解釈が起こります。
宇宙の叡智(全体の愛)から無条件の愛が流れ込んで心が震える体験をします。
時に、問題だった状況が一瞬で変化を起こすことがあります。![]()
とても奇妙に、不思議に感じる体験をします。
でも真にこの世界が分かってくると、これは不思議ではないことが分かりはじめます。
どのようにみえても、世界のすべての人は愛であり、愛で作られていないものは存在していなかったと分かったとき、今まで体験したことのないほどの平和と愛と幸せを体感します。![]()
愛を疑っていたことで、愛でない世界を見ていたのは自分だったことが真に分かったとき、本当に驚きました。
コメントで、
「嘘をつく人には、関わらないほうがいいか?」
と、いう質問をいただきました。
嘘をつかれるととても悲しくなりますよね。
そして離れたいと思います。
そのお気持ちとてもわかります。
でもね、このような時に私たちは自分の内側の何かに気づく時なのですよね。
この世界が内側の投影であるのであれば、原因は紛れもなく自分の内側にしか存在していないからなんです。
愛でないものを見ているのであれば、何らかの愛でない信念を信じていることで起こります。
そして、この世界が内側の投影であるのであれば、その信念が内側に存在している間は、人や状況が変わるだけで、何度も同じような体験をすることになるからです。
ここでヨハネによる福音書のお話をすこしお伝えしたいんです。
以下はウィキぺディアから抜粋しました。(ちなみに私は無宗教です)
・・・・・・・
イエスを試すために、律法学者 たちやファリサイ派 の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来た。
律法 では石打ちの死刑に値する。
イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言った。
これを聞いて誰も女に石を投げることができず、引き下がった。
また、イエスも女の罪を許した。
・・・・・・・
このお話は、罪を犯した女性に対して、裁こうとしていた人たちに対して、罪を犯したことがないものがいるのならその女性を裁きなさい。
というお話です。
でも誰もが自分の内側を見つめたとき、この女性を裁けないと理解したのですよね。
嘘をつく人が周りに存在しるのであれば、それは自分も嘘をついていることで起こります。
相手は自分の内側の投影であると真に受け入れて、そのように内側を観てゆくと、必ず何らかの思いが浮かんできます。
その嘘をついていることに対して、自分を責めて、自分を裁いていることに気づくために起こります。
自分が自分を責めている自分にきづき、自分を赦すことで、相手を赦すことが出来るようになります。
この時、自分が自分を裁いていたことに気づかせてくれた相手に感謝が溢れ出します。
人が嘘をつく時、私たちは嘘をつかないと愛されない、嫌われる、認められない・・・というような思い込みを持っています。
そのままの自分にたいして否定している事で起こります。
私たちがありのままの自分を認めて、愛を思いだしてゆけるために、日々いろいろな出来事が起こりますからね。
相手を通して自分を赦す、相手を赦すことで自分を赦す。
どちらも同じことなんですよね。
なぜなら私たちはもともと一つの存在ですからね。
この世界が真に平和になるために、私たちがすることは、戦争を反対することでも、正しさや正義を求めることでもないのですよね。
誰かや出来事(過去も現在も)を裁き、攻撃するのではなく、出来事や相手を赦してゆくことなんですよね。
それが実際は自分を赦すことに繋がります。
自分の内側が赦されてゆくと、赦された世界を投影し、赦された優しい世界が広がり始めます。
あなたとあなたの世界の愛と平和はあなたが握っています
生きとし生けるものが愛と幸せの中に生きられますように
愛と感謝をこめて
ゆう




