愉快を生きる!JJ抹茶です。
「やさしさに包まれたなら」松任谷由実&荒井由実(アルバム「Faces」より)
今日の1曲は、あたしの人生のBGMであるYuming様から。
セルフカヴァーアルバムのバージョンを選択。
松任谷由実と荒井由実が一緒に歌っております。
荒井由実のみずみずしい歌声と、それを愛おしそうに見ているような松任谷由実。
さて、この歌は、下手な精神世界よりもメッセージ性が高いと思います。
荒井由実時代に書いたということは、Yumingが天才である証。
小さい頃は神さまがいて
不思議に夢をかなえてくれた
やさしい気持で目覚めた朝は
おとなになっても 奇蹟はおこるよ
カーテンを開いて 静かな木洩れ陽の
やさしさに包まれたなら きっと
目にうつる全てのことは メッセージ
小さい頃は神さまがいて
毎日愛を届けてくれた
心の奥にしまい忘れた
大切な箱 ひらくときは今
雨上がりの庭で くちなしの香りの
やさしさに包まれたなら きっと
目にうつる全てのことは メッセージ
カーテンを開いて 静かな木洩れ陽の
やさしさに包まれたなら きっと
目にうつる全てのことは メッセージ
自らの持ち物を書き出してみると、何も持ってはいないことに気づきました。
そして「生命(いのち)」だけが持っているものであると観じました。
そうすると、自らの生命(いのち)は、すべての生命の一部であると観じました。
また、その「源(はじまり)」の写しであり、分れ身であることも観じました。
あたしに「生命(いのち)」があるように、すべてのものに「生命(いのち)」がある。
そう観じたとき
目にうつる全てのことは メッセージ
という出会いの素晴らしさを歌った歌詞を実感として味わうことが出来ます。
神様は愛を届けてくれるし、夢をかなえてくれる。
そして、おとなになっても奇跡は起こる。
という「やさしさ」に包まれていることを知るときは、今、なんだと。
「神との対話」では「(神は)自らを体験的に知るために世界を創造した」と書いています。
そのために、「自分ではないものを創造した(相対性)」とも。
言い換えてみます。
永遠の生命は、自らが「生きている」ということを体験的に知るために世界を創造した。
そのために「自分ではないもの」として【死】を創造した。(相対性)
この世界は、生と死の相対性の世界となった。生は永遠でなくなり、時間に制限される。
逆にそれで「生きている」ことを体験的に知ることが可能になった。
生きていることを体験するための受け皿として、私たちは創造された。
それは肉体(感覚)と精神(感情)である。
という感じになるでしょうか。全く相似であると観じました。
「神」という言葉のカタチではなく「生命(いのち)」という言葉のカタチから観てみる。
これもありだなと。
自らの本質=生命(いのち)
これは自ら実感として観じていることです。ならば、今は無理に「神」という言葉を使わずに、どんどん観ていく、体験して知る、ということもいいのかなと。
生命(いのち)を知っているという状態で在る
ということで生きるのが今の望みです。
それはきっと、(無限の)やさしさに包まれている、と知ることです。
自らの生命(いのち)、生命の源(はじまり)に感謝と祝福を贈ります。
そして、すべての出会いはメッセージであるという素晴らしさに感謝と祝福を贈ります。
「やさしさに包まれたなら」松任谷由実&荒井由実(アルバム「Faces」より)
今日の1曲は、あたしの人生のBGMであるYuming様から。
セルフカヴァーアルバムのバージョンを選択。
松任谷由実と荒井由実が一緒に歌っております。
荒井由実のみずみずしい歌声と、それを愛おしそうに見ているような松任谷由実。
さて、この歌は、下手な精神世界よりもメッセージ性が高いと思います。
荒井由実時代に書いたということは、Yumingが天才である証。
小さい頃は神さまがいて
不思議に夢をかなえてくれた
やさしい気持で目覚めた朝は
おとなになっても 奇蹟はおこるよ
カーテンを開いて 静かな木洩れ陽の
やさしさに包まれたなら きっと
目にうつる全てのことは メッセージ
小さい頃は神さまがいて
毎日愛を届けてくれた
心の奥にしまい忘れた
大切な箱 ひらくときは今
雨上がりの庭で くちなしの香りの
やさしさに包まれたなら きっと
目にうつる全てのことは メッセージ
カーテンを開いて 静かな木洩れ陽の
やさしさに包まれたなら きっと
目にうつる全てのことは メッセージ
自らの持ち物を書き出してみると、何も持ってはいないことに気づきました。
そして「生命(いのち)」だけが持っているものであると観じました。
そうすると、自らの生命(いのち)は、すべての生命の一部であると観じました。
また、その「源(はじまり)」の写しであり、分れ身であることも観じました。
あたしに「生命(いのち)」があるように、すべてのものに「生命(いのち)」がある。
そう観じたとき
目にうつる全てのことは メッセージ
という出会いの素晴らしさを歌った歌詞を実感として味わうことが出来ます。
神様は愛を届けてくれるし、夢をかなえてくれる。
そして、おとなになっても奇跡は起こる。
という「やさしさ」に包まれていることを知るときは、今、なんだと。
「神との対話」では「(神は)自らを体験的に知るために世界を創造した」と書いています。
そのために、「自分ではないものを創造した(相対性)」とも。
言い換えてみます。
永遠の生命は、自らが「生きている」ということを体験的に知るために世界を創造した。
そのために「自分ではないもの」として【死】を創造した。(相対性)
この世界は、生と死の相対性の世界となった。生は永遠でなくなり、時間に制限される。
逆にそれで「生きている」ことを体験的に知ることが可能になった。
生きていることを体験するための受け皿として、私たちは創造された。
それは肉体(感覚)と精神(感情)である。
という感じになるでしょうか。全く相似であると観じました。
「神」という言葉のカタチではなく「生命(いのち)」という言葉のカタチから観てみる。
これもありだなと。
自らの本質=生命(いのち)
これは自ら実感として観じていることです。ならば、今は無理に「神」という言葉を使わずに、どんどん観ていく、体験して知る、ということもいいのかなと。
生命(いのち)を知っているという状態で在る
ということで生きるのが今の望みです。
それはきっと、(無限の)やさしさに包まれている、と知ることです。
自らの生命(いのち)、生命の源(はじまり)に感謝と祝福を贈ります。
そして、すべての出会いはメッセージであるという素晴らしさに感謝と祝福を贈ります。