ちょっと気になるけれど・・・
まあ、言わなくってもなあ~
躊躇。
女性にはよくあることかもしれません(笑)
私もそういうこと、あります。
ここで言う?言わない?
考えちゃうことありますね。
* * *
今日は最後のPTAでした。
(あ、一応今年、役員していました・・・)
ちょっとそこで嬉しかったことが。
先日、ある会議に出席したとき
(各部から1名でなければいけないものでした)
ただ、聴いて来ればいいですよ~という
申し送りだったので、気楽に参加したのですが(笑)
とある報告を聴いていて
「う~む・・・??」と想うことが湧いてきて
最後に一言ずつ感想など・・・と降られたので
どうしようっかな~?とおもいつつも
口からは、感想とともに、
あるご提案が出ていました(笑)
でも、その件を
学校医の先生が、
「う~ん、それは無理ですねえ~」と
あっさりと却下されました(爆)
確かに、私の提案は
すぐに・・・ということではなく
追々、考えていただければ、
子供たちの環境のためにいいんではないか?という
投石のようなもの。
でも、あっけなく
「無理ですね~」って言われてしまい
私も
「あ~いわなきゃよかったかな」って一瞬思いましたが
校長先生に最後、ちょっと別件でごあいさつしたところ
「今日は貴重なご意見ありがとうございました」と
おっしゃってくださり、
あ、伝えただけでもよかったかなと。
そう思って、その後
その件は忘れてしまっていました。
そうしたら、今日、私の提案した物品を
なんと購入してくれていたのがわかり
素早い!!
なんだ~考えてくださったんだ~!
言ってよかった!と。
人って言うか言わないか?・・と躊躇するときって、おそらく
「自分を否定されたくない」っていうのが根底にあると
(自分を)守ることにエネルギーがシフトされて
「言わない」という選択をしてしまいがち。
でも、なぜ一瞬でも言おうかな?っておもったのか。
そこをみていくと、
「問題がただ、そこにあるように感じたから。」
感じたこと=意見を言う
こういう土壌が日本人には経験値として
少ないから、
どうしても「NO」と言われた時に
「違う意見」としてとらえられずに、
「自分を否定された」「否定されたくない」という
図式になりやすのでは?と思う。
NOは別に人格否定ではないからね♪
NOもまた相手にしてみれば、ひとつの意見なわけで(笑)
だから、私も「無理ですね~」とおっしゃってくださった
校医の先生とはひとつの「コミュニケーションをした」と思っています。
「私」を否定したわけではないですから。
意見が違っただけ。
話は戻り
来年度は助かるわ~とそこにいた1,2年生のお母さんたちに
「言ってくれてありがとう」などとまで言われて
いやいや、わが子は卒業するから~と
ある意味、関係ないっていったら終わり。
こうやって意見することで
なんだかひとつ事が改善されたようで
ただ、ただ、よかったと
素直に心から思えました。
要は一番そこで大事なことは
学校で日々過ごす子供たちのこと。
そこが良くなることを想うのは
親も先生も根底は考えることは同じ。
やっぱり思ったら、「ちょっぴりの勇気」をだして伝えてみる。
たとえ、その時はいいお返事がもらえなくても。
それで「終わり」ではないんだな~
アクションがあることは、
誰かの何かの「刺激」になるかもしれないし
可能性は0ではないんだなあ~って。
伝えなかったら0だけれど
伝えてみたら1にはなる。
1があれば、2にも3にもなる。
その1が2にも3にもなる「可能性」は捨てないってこと。
考えてみたら
私のまわりでも
私を講師として呼んでくださったり
講座を開催しようとおっしゃってくださったり
すべて、想ってくださる方の
「ひと声」から始まっている。
人の想い、ひとこえって
「はじまりの窓」なんだな~って
改めて大切に思えました。