2003/04/30発行の @future weeklyより
★ One day @future
SF 日本釣り紀行 (7) 紀州 編
このSFを書いたときは、2003年の四月でした。地震が来たときの警告のつもりもあって書きました。でも東北に大震災と津波が来るとは考えてはいませんでした。あるいみSFとして書いていることが起こってしまっので3.11の時は本当に怖かったです。
平成の第二南海大地震・東海大地震の話、
伊野 アーサー (Iknow Arther)
地球温暖化で、世界の海水面が五メートルから七メートル上昇し、第二次南海大地震・第二次関東大地震で日本の都市部が大被害を受けたかなり近い未来の釣り紀行です。
今回は紀州(和歌山県)です
鈴木>
「ここまで、意外と速かったね。近畿自動車道も、阪和道路も、それから先の自動車道路も、海岸を走っていなかったので、道路周辺は、海面上昇や大地震の被害が少なかったからね。これが無かったら、今でも、和歌山の南部は陸の孤島震災やね。」
箕面>
「白浜空港がある」
鈴木>
「そうやな。白浜空港はめずらしく、丘の上にある。これが第二次南海大地震の時には役にたったんや。紀州も 白浜までくると、よく釣れるね。イサキなんか入れ食いだし。チヌ(黒鯛)も50cmを超えている。なかなかのもんだ。箕面さん、アンタはルアーでさっきか ら釣ってるけどもなにが釣れているの。」
箕面>
「メッキの大きくなったヤツさ。メッキとはもともと南の海のギンガメアジやカスミアジやロウニンアジの子供なんだけど、地球温暖化で、このあたりで成長して、1メートルぐらいのはよく釣れるようになった。」
鈴木>
「メッキね、そういえはアンタはもともとこのあたりの出身だと聞いていたけど。」
箕面>
「オヤジが、ここの漁師の家に生まれたんや。」
鈴木>
「そうか、なら実家はまだあるんか?」
箕面>
「海の底や。さっき船をだしたところの近くに沈んで。おばあちゃんの実家はお寺で、丘の上にあって、今でも 家は無事やけども、おばあちゃんは、下のお店で、買い物してる時に津波で逃げ遅れて行方不明や。年寄りの足では、寺まで二十分では帰れんかったんや。親戚 もたくさん死んでしもた。」
鈴木>
「悪いこと聞いてしもたかな。それで何となく元気がなかったのやな。」
箕面>
「かまへん。こんな話、珍しいことあらへん。おばあちゃんのお寺の言い伝えを守ってたら、みんな、地震や津波で、死ぬことはなかったんや。それから東京に出張していたオヤジも、第二次関東大震災の津波の時に、ビルが避難場所になってたら死ぬことなかったのや。」
(著者中 この SF を書いたときはビルが避難所にすることにはなっていませんでした。幸いなことに、東北の大地震もあって現在はビルは避難先になっていますが、だから、この話とは食い違っていますが、)
鈴木>
「お父さん、あんたが五歳の時に、死んだ言うてたけども。東京に出張中やったのか。」
箕面>
「テレビのニュース・カメラマンの仕事をしてたんや。第二次東海大地震の後、東京の官庁街の周辺で取材して たら、第二次関東大震災が続いておこった。そして、津波が襲ってきたんや。耐震設計の官庁やオフィスのビルは夜なので、ドアが閉まっていた。それでほとん どの人が流されてしまったんや。おとうちゃんは、撮影中に流されたんや。ビルは無事やったんやけども、人間は死んでもた。夜でもビルの中に、避難できる様 にしておいてくれたら、何万人もの人が死ななくてすんだんや。」
鈴木>
「そうか、おとうさんが流されながら撮影した映像は、有名やで。地震のビデオの記録で、見たことあるで。たしかに、東京も大阪も、大きなビルは無事やった。今でも残っている。第二次東海大地震の2日後の夜に、第二次関東大震災が起こったんやったな。そして次の年に、南海大地震や。その時は昼間やったから、大阪の人は、東京の教訓で、ビルに逃げて助かったんや。うちのお母はん、ビルの掃除の仕事をしとって、上の階に逃げたから助かったんや。そんな話つらいやろ。」
箕面>
「いいや、言わん方がつらいんや。おばあさんのお寺には、宝永地震(1707年マグニチュード 8.4 死 者二万人、六万戸の家屋全壊)の時の記録も、安政の地震(1854年 マグニチュード 8.5 死者数千、家屋全壊 四万)の記録と碑が残こっとった。1946年の昭和の南海大地震の時は、1350人死んだ。一万五千軒が被害をうけた。先祖が、われ われ子孫に「地震の時には、潮が速くなったり、井戸が干上がったり、大量にウナギが捕れた」という記録を残してくれたんや。お寺の碑には、「この碑の上の 線まで津波が押し寄せたから、これより下には家を建てるな。懲りて慎め」と書いてある。そやけども、そんな事を本気にした人は、ほとんどおらへんかった。 みんな平地が便利やからと、低いところに家を建てたり、海を埋め立てて、工場を造った。それで地震が来て、家だけやない、命も失ったのや。たいていの人 が、大事なものを車につんで逃げようとしたけども、信号は停電やし、じゅずつなぎで、逃げられなかったんや。車と一緒に死んでもた。」
鈴木>
「そうやな、その事は小学生やったから、子供の頃やったけどよく知ってるで。地震で大勢の人が、怪我をした んや。そやけども、あの時は救急車は来なかった。何万にもの人が同時に怪我をしたんや。町中けが人だらけで、道路は放置された車で救急車や消防車は動けな かったんや。悪いことに、あの時の人は、ちょっとした傷口の消毒も自分らでは出来る人はほとんどいなかった。クスリや包帯を家に置いている人も少なかっ た。学校でも手当の材料もわずか。看護婦さんも家には何も置いておかなかったんや。「すぐに救急車で病院に行けば、手当てしてもらえる」と油断していたん や。救急手当として教えていたのは、人工呼吸と心臓マッサージが主で、救急車が来るまでの処置や。救急車が来ない時の想定がなかったんや。」
箕面>
「そのてん韓国では、違ったみたいやで。国民皆兵で、男はみんな軍隊に行くやろ。そこで怪我した時には、自分らで手当てしたりするセルフ・メディスン技術を習ってたから、それで命を助かった人がおおぜいいたんや。」
鈴木>
「日本の学校では、ほんまに必要なこと、命を守る事をなにも教えてなかったんやな。怪我は、すぐに保健室と 病院、食べるものは、買うだけなど、自分の力でなにも出来んようになってたんや。その点うちのオヤジは、流行らないアウトドアスポーツのガイドとインスト ラクターやったから、日本がダメになってからは、大活躍やったで。」
箕面>
「そやな、アンタのお父さんには、世話になったな。オトウチャンが死んでからは、親代わりや。食べられる植物、栽培法、魚の取り方や、鳥や動物の食べ方なんか教えてもろたで。」
鈴木>
「それは、オヤジが若い頃はアフリカでガイドしとった事もあったので、動物やトカゲや蛇の食べ方を知っていたからな。ネズミも食べたし、近所の飼い犬や飼い猫も食べてたんやで。」
箕面>
「うそやろ。そういえば、アンタ所に行くと、よう肉料理を食わしてもらったな。ゲーエ。犬や猫やったんか?でもうまかったで。」
鈴木>
「そうやで、近所の人や年下の箕面さんには、可哀そうやから何をたべているかだまっとりとオヤジが言うとった。」
箕面>
「そうか、お陰でいまでは、魚でも動物でも、なんでも捕まえて食べられる様になったもんな。それに、アンタのオヤジさんは、カヌーやヨットや船なんかも自分で作ったり、ソーラーモーターや風車発電も自分で作ってたんや。」
鈴木>
「どれもその当時の日本では、機械は買うもので、個人で作るもんやなかったけども、海外のジャングルや大自 然の中では、機械の故障は当たり前。メンテや改造は、でけんと生きて行けへんかったらしい。そういう特技が役にたったんや。自分で作った機械や、集めてき た機械などを、被災した人に、提供したり、教えたり、助け合ったりする事をしてきたから、他の所みたいに市民同士が争わないで生きて行けた。そやけども、 オヤジがペットの誘拐犯とはだれも知らなかっただろうけど。」
箕面>
「また、ペットが飼える時代になるやろか?また、釣れたで。」
鈴木>
「あっ、痛!ルアーが服にひっかかったで。気つけや。」
箕面>
「こんどは、スズキさんが釣れたで」
紀州(和歌山)編 おわり
▼ 編集・発行 岩崎正春 hal4life@joy.ocn.ne.jp
▼ http://石垣.okinawa.jp/
バナークリック宜しくです。
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